とてつもなく巨大な鼠が大阪市内に現れたとかいうので、紗江子と二人でそいつを見に行くという計画を立てた。

最も、計画とは名ばかりで、車で市内まで行ってからどこをどう歩いて回るかという順序のみを話し合っただけである。

何せ市内は広い。計画なく歩いたところで、当の鼠を発見できず無駄足になるのは目に見えている。

いくら鼠が巨大だといっても、まさか大阪市より大きいなどという馬鹿げた話はよもやあるまいて。

精々、一メートルといったところか。ニュースで見た鼠は確かにそれぐらいだった。


それが実際に行ってみて驚いた。

市内に入った瞬間、そこには巨大な鼠が空を突き抜けていたのである。

呆然と見上げた先には、幽かに髭のようなものがピンと張っている。

風に揺られて曲がらずに撓る様などは、まるで電線の様だ。電線かも知れない。うん、なんだかそんな気もする。

とにかく不思議な鼠だ。遥か遠くの生駒山脈より大きいというのだから、いやはや呆れたものである。

ここまで大きいと、最早鼠かどうかも疑わしい。

しかし紗江子曰く「疑わしきは罰せず」なので、気長に事態の解決を待ってみる。

ところで先ほど私は「市内に入った瞬間」と書いた。確かに市外からは見えなかったのである。

「空は続いています」紗江子の言葉も、もう信用ならない。私はこの目で見たのである。市外から、市の空を。

そこには鼠どころか雲一つさえなかったのだから、疑いさえ生まれない。

ただ、目を伏せ、市内に入ってから見上げたら、鼠が空を突き抜けていたのである。

丁度陽を背に進んでいたので鼠の巨影は干渉せず、それが余計にこの難問の存在を証明した。

どうやらこの鼠は、市内特有のものであるらしい。だとすると大阪市の所有財産になるのかも知れない。

ここまで大きいと、不動産扱いかも知れない。税金は課されるのだろうか。そうだとすれば、これは重大な税金逃れだ。

何故なら、我々庶民はこんな巨大な課税対象を知らされていないからだ。市はこのことを隠していたに違いない。


以前、巨大な蛇を見たことはある。

もしかしたらそれは巨大なのではなく、ただ単に私がそれまで思い浮かべていた蛇のイメージより大きかっただけの話かも知れない。

蛇の側からしたら大きな迷惑だ。人間の方がよっぽど巨大でヘンチクリンな生き物じゃないか。

とにかくソイツが玄関先に現れて、こちらをじっと見つめたので気味が悪くなって箒の柄で叩いたらそそくさと逃げたのだ。

怒って咬みつかれるかと思ったが大事には至らなかったし、蛇を追い払った事でもしや不吉な将来があるかと思ったがそれもなかった。

それにしても一体、この鼠はどうしたものだろう。

まさか箒で小突く訳にもいかないし、声も上空には届かない。鼠はそんな私の苦心にも全く動じず、ただじっとしている。

腹は減らないのだろうか。いや、そんな馬鹿な事を考えている場合ではない。いや、馬鹿な事、とは言いすぎであったか。

確かに重要な問題である。普段はうちのミケにさえ弄ばれるあの小さな鼠が、これだけ巨大な化け物になるのである。

ミケも堪ったもんじゃない。生物が巨大化する為には、物理的に相応の栄養価が必要なのは自明の理。

この世でそれ程まで高蛋白で、手軽に摂取出来る程豊富に存在するものと言えば……私には恐ろしくてとても表記できない。


しかしこれで解決の糸口が掴めたかも知れぬ。

市内の蛋白ばかり摂取していたから市内特有の存在になったという仮説が生まれるじゃないか。

そしてこの考え方はかなり的を射ている。

蝸牛は摂取物の色素がそのまま排泄物に影響される。つまり人参を齧れば赤色、キャベツを齧れば必ず緑の糞が排泄されるのだ。

人間だってそうだ。ひじきを食えば真っ黒な便が出る。

この鼠だってきっとそうだ。今はこんな化け物になってしまったが、以前はただの鼠だったじゃないか。


その間も紗江子は冷静沈着で、じっと鼠を見つめている。一寸ぐらい驚いても良いようなものだ。

私だって一瞬ひやりとしたくらいなのに。


鼠は全く動かない。本来鼠というものは忙しなく動き続けているのが常なのに、こいつは髭一つ動かさない。

いや、動いてほしい訳でない。寧ろそのままの方が有難い。

髭一つ動けばビルは崩壊し、私と紗江子は瓦礫に押し潰されてしまうだろう。

だが私はこの鼠が動かない事に、矢張り奇妙な感じを覚えた。

人間の私だってじっとしているのは不可能だ。歩けたら歩くし、疲れたら座る。

考え事をしている時でさえ、右手の中指を机に幾度も叩きつける。

頭を掻いたり背中を掻いたり、指を鳴らしてみたり首を回したり。

動物というものはじっとし続ければやがて死ぬ。筋肉が硬直し、血管が破裂し、餓死する。

しかしこの鼠は二本の足でしっかと起立したまま、微塵も動かない。

知っている限りでは、テレビで見た時から動いていない筈だ。

テレビで見たのは昨日の午後なので、こいつは中々忍耐力のある奴だ。天晴れである。


蛇に続いて蟷螂の話をしよう。ベランダに現れた巨大な茶色い蟷螂の話だ。

こいつも蛇と同じで突然現れたかと思うとこちらを威嚇するでもなくじっと見つめてくる。

蛇に蟷螂と、不吉な事が続いて些か不愉快ではあったが、まさか放置する訳にもいかぬ。

さっさと布団叩き(こいつが不思議な奴なのだ。

私は元来布団叩きというものがたまらなく大好きで、彼女を用いて布団を叩くのをいつもためらってしまう。

夜は彼女を抱かないと眠れない程だ。

あのどう見ても他の用途を見出せぬ不気味な形状、単色なのに情緒感に溢れた色彩、それからあの肌触り。

本来は布団叩きではなく恵梨などと勝手に名前をつけて愛でているのだが、矢張り布団を叩くのに彼を使わない手はない。

仕方なくその天命を全うさせてやる訳だが、この時蟷螂を追い払う道具として用いたことは私自身、非常に驚いている。

所詮道具は道具以外の何物でもなく、私と彼女との種族を越えた愛は認められぬという事なのか。

だとしても、矢張り私にとって彼女は恵梨であり、夜の伽をするものであり、愛でるべき特異な存在であることには変わりない。

彼女との思い出は豊富で、どれもかけがえのない体験なのだ。

一時期、私が仕事の事で悩んでいた頃、毎夜毎夜血を吐くまで酒を飲んで帰宅するという事があった。

八つ当たりで辺り構わず怒鳴り散らし、勝てもせぬ喧嘩を吹っ掛け、しこたま殴られて泣きながら自殺まで考えたあの頃。

あの頃の私を支えてくれたのは恵梨だけだ。

何でも悲観的に考えてしまって、ふやけた窓枠の様に生きる術を見失ってしまった私を優しい言葉で慰め、

励まし、明日があるよと背中を押してくれたのだ。

彼女がいたから、今の私がいるのだ。恥ずかしい話だが、実は私は彼女と肉体関係を持った事さえあるのだ。

最早肉体の繋がりという温もりの共有無くして、私は再起できなくなっていたのだ。

いやはや、面映ゆい話ではあるが、事実である。話が長くなった。

蟷螂の話の続きを読んでもらうことにしよう)で追い払うと、鈍い羽音を残してやや南西の木蓮に飛び移った。

ところが今度はその木蓮の中腹にある葉の上から懲りずにこちらを見つめているのである。

自慢の鎌をだらしなくぶら下げて、惜しむべき時間をふんだんに費やしてずっと見ている。

いい加減気味も悪く、心なしか吐き気も感じたので慌てて家を出て追い払いに行ったら危機を察知したのかもうそこには何もいなかった。

そしてそれも矢張り大事には至らなかったのである。


一時間程経って、漸く鼠は鼻をヒクヒクさせた。

お陰で髭も上下左右に揺れることになりビルにぶち当たったが、どうやら髭は相当柔らかいらしく、ビルに貼りつくようにぐにゃりと曲がって被害はなかった。

そして動いたのはそれだけで、また元の様に硬直してしまった。ビルの人間は既に避難していたのだろうか。

誰もビルからは逃げ出してこなかった。


私は遂に紗江子と二人で車を降りた。鼠の足元に行ってみたいのだ。

恐怖感はあったが、何、目の前をビュンビュン走り抜けている車に比べれば遥かに安心である。

いくら巨大化しているとはいえ、鼠も動物だ。動物である以上、私と紗江子と鼠は、車とは分類が違う。

言うなれば私たち三者は同類なのである。よもや車に殺されても同類に殺されることはあるまい。


ここから鼠のところまでは結構距離がある。空を見れば近いが、地を見れば遠い。

脳が直接くらくらする様な、不思議な感覚である。ボクサーはノックアウトされた瞬間、こんな心持になるのだろうか。

そう思えば殴られずに特異な経験ができたと少し得した気分になったが矢張り怖くなったので思わず地面を触ってその存在を確かめる。

果たして地面は私たちのすぐ下にあった。良かった。


とりあえず電車を使って難波の駅まで行く。それから折り返すように東へ歩く。

人の足は皆私たちと反対の方向へ向かっている。但し、逃げているのではない。それは、あくまで日常だった。


丁度残り百メートル位にまで近づいたところで、鼠は忽然とその姿を消した。

しまった、見失ったかと思ったが、どう考えても見失うような大きさではなかった。仕方無くスーツの若者を呼び止める。

「一寸。あの辺に巨大な鼠がおった筈なんですけど」
「ああ、宗教はお断りしています」
「いや、違う、ほんまにおったんです」
「白昼夢って知ってますか。奇病なんですがね、案外多いらしいですよ」

私はその対応にやや怒りを覚えたが、改めて考えてみると、確かにそんな巨大な鼠がある筈はなく、突如「はくちゅうむ」という音が重量を持った。

不安である。自分は何か勘違いしていたんだろうか。

「でも、昨日テレビでもやってましたよ」

台詞を思いついた後、矢張り「はくちゅうむ」が発言を抑圧した。

そりゃそうか、初っ端から勘違いしていたんなら、あのテレビ番組だって頼りないな。

神経衰弱という奴か。

そうか、「あれ」から俺はすっかり神経衰弱だ。

忘失していたな。衰弱、衰弱。