美禰子の愛 夏目漱石の描いた『三四郎』の中で一際重要な存在と位置づけられる美禰子は、ごく有体に読めば、男をたぶらかし弄ぶ悪女の様に見える。 明らかに三四郎を魅惑し、かつ他の男に対する愛想も決して悪くしない。 まず三四郎と初めて逢った池で、「白い花」を見ず知らずの三四郎の前に落として行く。 これは明らかな誘惑であり、この時点で三四郎は美禰子を忘れられなくなっている。その想いは夢の中で彼女を「轢死」させてしまうほど。 そして広田先生の新宅を掃除するくだりで、「三四郎はバケツを提げたまま二三段上った。女は凝としている。三四郎は又二段上った。 薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。」とある。 やや躊躇しながら歩を進める三四郎に対し、美禰子は全く堂々としている。 「美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離」まで近づいても、美禰子は一切動揺しない。 更にその後三四郎が頼まれた窓を未だ開かれずにいる場面で、美禰子は三四郎とは「反対の側へ行」き、「此方です」と言って自ら場所を示す。 自分で開ければよいものを、わざわざ「暗くって分からない」と言い、暗闇に三四郎を呼び寄せる。私にはこれが美禰子の誘惑に見えて仕方がない。 例えるなら冒頭で三四郎と同じ部屋に寝た女である。しかし三四郎は手を握ることもできない。 美禰子の「誘惑」を裏付ける、更に重要な箇所がある。 同じく広田先生の新宅を掃除しに来た際、三四郎と交わした会話に「それから池の端で……」というくだりがある。 あれほど瞬間的で薄っぺらな出会いでしかないに、美禰子は「池の端」の事をよく覚えている。 これは少なくとも、あの「白い花」を置いていった事が何の意味をも持たないという事を否定する。 そして極めつけは「迷羊」。その瞬間こそ三四郎に誤解されたものの、「迷羊」は大変な「誘惑」の意味を持つ。 実際、その言葉の本質を理解した三四郎は、いよいよ自分は美禰子に認められたのかも知れない、と思うようになる。 そしてこうやって術中にハメた三四郎を尻目に、美禰子はあまりにも唐突に、それもよし子と縁談のあった男と結婚する。 これが美禰子を「悪女」と呼ばしめるに十分な効果を持つ。 しかし私は「森の女」の持つ意味に着目し、美禰子の三四郎への愛を紐解いた。 実に俗的で、かの広田先生の言葉を借りれば「小説染みた」考え方ではある。 しかし「森の女」の構成と、その成り立ちについて考えてみれば、この考えは自然であることが分かる。 「森の女」の構成は、美禰子が「団扇を翳して、高い所に立っていた」あの池の光景、つまり三四郎と初めて出会い、初めて彼を誘惑した光景なのである。 そして原口によれば、この構成は美禰子自身が望んだものであるという。ここに於いて私の考え方が一変した。 美禰子が三四郎に対して行ってきた行動が、「誘惑」だとは思わなくなった。 寧ろそれは多分に「愛」であり、美禰子は心から「白い花」を三四郎に贈ったと言える。 だからこそ「池の端」の事を覚えており、三四郎に「迷羊」の権利を与えたのである。 「迷羊」の解釈には様々な説があるが、私は聖書にある意味を全て以って「迷羊」を解釈する。 すなわち、「あらゆる同種の中のほんの一個であり、最も愛すべき一個である」という意味。 挙句の果てに、美禰子はこの画の構成を自分の案でなく、原口が勝手にやったことなのだと三四郎に説明している。 当場面の状況から判断すると、これは至極尋常単純に「愛」である。 いつまでも鈍くて「度胸のない」三四郎に、美禰子は「森の女」に託した想いを気付かせようとしたのである。 もしかすると「森の女」というタイトル自体、美禰子が命名したのかも知れない。森が持つ「迷い」と「謎」のイメージ。 「池の端」とは全く無関係なそれを理解し、命名できた美禰子だからこそ、「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」と言い切れるのであろう。 しかしそんな美禰子でさえ、三四郎から見れば「迷羊」なのである。