<あの夜、今。> その日は家を出るのが遅くなってしまって駅出口周辺に陣取ることができず、いつもにも増して暇となってしまった。 そこでつい転寝をしてしまった訳だが、そこへどういう訳かコンコンと窓を打つ音がする。 「変だな」と思った私は、ようやく眠りに入ったばかりの重い瞼を押し上げ、左に目線を流してちらとサイドミラーを見た。 駅の燦々たる光線が驟雨の様に襲い掛かり、私はまともに目を開けていられなかった。その眩い逆光の中に、黒い影があった。 百七十センチ位だろうか、それほど髪の長くない男がぼぅっと人影を作り出していた。 再びコンコンと窓を打つ音。「ああ、すいません、居眠りをしていたもので」と慌ててドアを開け、男は至極当然の所作として、中に入ってきた。 その瞬間、もう一度ちらと男を見たのだが、今度は闇でよく見えない。 しかし全身真っ黒なスーツを着ていて、気味の悪い恐ろしさと威圧感を覚えた。私はもうそれきり男を見ることができない。 バックミラー越しでさえ、異様な恐怖を感じるのだ。これは正常な人間の放つ雰囲気ではない。 「あの、どちらまで」その声も、最早私が発した様に思えないのだ。恐ろしさのあまり、身体がこわばる。 この田舎町では、駅周辺は真昼のように明るいが、そこから四方八方どこへ行っても夜になる。しかし今宵は唯の夜ではない。 まるで山奥に死体を捨てに行くような、そんな粘っこい空気を多分に含んだ夜である。 「どこでも良い、とにかく暗い、人のいない所へ逃げ……いや、行って下さい」 それはようやく耳に届く、呟きのような囁きのような、とにかく小さなか弱い声で、それがまた私の心臓を締め上げた。 「すると裏山でよろしいですか」ここでの問いは答えを期待しない問いである。男の出した条件を満たす目的地は、裏山しかない。 故に男の返事も待たずして、車は既に動き出していた。夜が一層夜になった。 それから殆ど経たない内に、なにやら男の呼吸が激しくなってきた。私はもう抑え切れない恐怖を打ち消す為、ラジオの音量を上げた。 それが客に対する最低の行為であると分かっていても、今の私にはこの男の心情を察してあげられる程の余裕がないのだ。 とにかく、怖い。 車はスピードを上げる。慣れた道が、初めて訪れた道に思える。 辺りの暗闇はますますひどくなり、死者のような静けさを以って、私に危険と恐怖を訴えかける。 山まではまだしばらく時間がある。 《……天気予報。明日は晴れでしょう。雨の心配はないでしょう。しかし午後からやや雲が出てきますので、寒さ対策は十分にしましょう》 《……山の風景も最高ですが、私は谷の風景も大好きなんです。見てると飛び降りたくなるんです。 あの強大なパワーはどこから生まれるんでしょうか。万が一にも飛び降りたら即死ですよね。何かそういった恐怖や真理を孕んでいるものって、惹かれます》 《……神が降臨してからというもの、私たちの生活は酷く窮屈なものになった。酒を飲めない、女を抱けない、金儲けできない。 それが戒律というものであり、人間を最も美しくするのだという理屈は分かる。 そして私も神を信仰する者として、それを守ろうと努めている。しかし公園で若い男と女が性交しているのを見ると、ついぞ殺したくなるのは何故だろう》 《……その時、私の隣で既に男は死んでいた。誰にも悟られず、誰にも殺されず。自殺では無い事が、一番私を苦しめた》 《……交通情報。現在はどの線も混みあうことなく、スムーズな交通が実現されています。これも事なかれ主義という、獅子内閣の賜物でしょうか》 《……再び天気予報。二月十三日金曜日、晴れ》 ようやく山の入り口に着いた時には、既に十二時を回っていた。 「お客さん、この辺りでよろしいでしょうか」「いや、……奥まで」「しかしこの先を車で進入するのは非常に危険ですし……」 それから三十秒程、二人を沈黙が制圧して「いや、奥までお願いします」 それから車はガタガタ揺れながら山道を駆け上がった。まだラジオは電波を拾っており、スピーカーから軽快なジャズがこぼれていた。 それが無人の山に響く。暗黒の山にこだまするそれは、非常に滑稽であった。 その滑稽ささえ、男の発する恐怖と威圧感の前では、無に等しかった。 さて、私は兼ねてより男に聞きたかったことがある。今、それを聞く最初で最後の好機だと思う。 何故なら、つい先ほどから男の呼吸がおとなしくなったからだ。気配さえ感じさせないほど静かで、威圧感や恐怖感はどこかへ消えてしまった。 寝たのかな、とも思ったが、アスファルトの平坦な道ならまだしも、山中の凸凹道である。ではどうしたのだろうか。 しかしそんなことは最早どうでもよかった。とにかく、今が聞きたかったことを聞ける好機であることには変わりない。 今しかない。 出来る限りさりげないふうを装って「お客さん、何故この車を選んだんですか」しかし返答はなかった。沈黙が私を襲う。 「お客さん、何故この車を選んだんですか。駅出口から一番遠い、この車を」再び沈黙。私は愈々変だなと思い、思い切って後ろを振り返ってみた。 すると今まで腑に落ちなかった全ての疑問点が、束になって私に襲い掛かってきたのだ。 男はいつのまにか死んでいた。全身、血だらけである。それだけなら警察への出頭と死体の処理だけで済む。 しかし男の残した数々の疑問点が、死体の処理を躊躇させる。 「何故この車を選んだのか」そう聞いたことが今更恐ろしいことのように思える。 「何故この車を選んだのか」 わざわざこの車を選んだことに、一体どんな意味があるのだろうか。 それが示唆する事実のが、私に死体を処理させない大きな力を生んでいた。 いや、落ち着け、一体何を恐れると言うのだ。私が何をしたと言うのだ。少なくとも、私には法に触れうる程度の行動を為した記憶がない。 それに考えようによれば、私は被害者じゃないか。そうだ、私は一切の面で一方的に被害者なのだ。 何故なら私はこの男を全く知らないし、殺した覚えも無い。第一、死に至るまでの間、私は男に一切触れていない。 このまま交番に駆け込み、事情を説明すればそれで全て解決することなのだ。 いや、待てよ、それは少し拙速じみた考え方ではないか。これはどうひいき目に見たって自殺なんかじゃない。 少なくとも、他殺以外の可能性は薄い。 この様子だと車に乗った時から既に血まみれであったようだし、車内で自殺したのならもっと血が飛んでいても不思議じゃない。 まして、私が気付かない筈がない。おい、それだけじゃないぞ、他殺を証明し、自殺の可能性をゼロにする事実はもっとある。 まず車に乗ったこと自体がそうだし、慌てて言い直したものの、最初男は「逃げて」くれと言ったのだ。 何者かに襲撃され、追われていたのかも知れない。 これはまずいことになった。考えてもみろ、私は今、非常に危険な状態にある。警察の立場になって考えればわかる。 真夜中、いきなり血まみれの死体を持ってきた男が「山まで逃げてくれと言ったので連れて行ったら死んでいた」と言ったところで、誰が信じるものか。 自殺の可能性がない以上、最有力の容疑者はこの私だ。私が犯人であることは、そこに申し分ない論理的正しさを備えている。 畜生!なんて迷惑な死なんだ!無実の罪で逮捕なんてされてたまるか。しかしこのまま死体を積んで帰る訳にもいかない。 幸か不幸か、ここは山奥だ――捨てるより他はない。 私は手袋を外し、上着を脱いでその死体を担いで車を出た。上着に血が付いてしまうと妻に何を言われるかわからない。手袋も重要な証拠になってしまう。 死体は軽い訳ではなかったが、持てないという訳でもない。きっちり全力を使って持てるという感じで、手抜きできない重さだ。 しかし、歩くにはなんら問題なかった。一歩、一歩と踏みしめながら、真冬の山中を死体と共に歩く。 どこか、誰にも見つからないところはないか。そう、絶対に見つからないところがいい。 既に指紋は付着している。誤魔化しの利かないところまで来てしまったのだ。 しかし行けども行けども優良な捨て場は見つからない。どこに捨てようとしても見つかりそうな気がして、不安で捨てられないのだ。 なんてこった!もう取り返しがつかないぞ!指紋も髪も汗も、ありとあらゆる「私」の証明は男に付着してしまったのだ! 段々辺りが白々しくなってきた。木々の間から、昇りゆく太陽の光がストローのように幾本も差し込める。 もう駄目だ、疲れた。今日は野宿して、また今晩、捨て場を探すことにしよう。 しかし死体を下ろそうとすると、これがまた多分に力を消費する。もう消費できる力は微塵も残っていなかった。諦めて再び歩き出した。 死体を下ろすより、担いだまま歩いて行くことの方が、はるかに易しかった。 動かざる死体は、いまだ暖かかった。そして、やっぱり静かだった。 心臓や内臓の動きがない人間というものが、これほど静かなものだとは思わなかった。 その静寂に慰められ、段々恐怖や後ろめたさというものが薄れてきた。 そしてあろうことか、私はその死体に愛着さえ感じるようになってきたのである。 一体、この世の中に死体でない人間がどれだけいるだろうか。毎日毎日同じことの繰り返し。 いくら連鎖を繰り返したところで一向に向上しない生活。 社会という機械の歯車となってしまった人間は、最早死んだも同然の存在と成り下がってしまったのだ。 この、一種の「無関係な死」は、我々が存在している現世において全く当然であり、普遍的であり、本質的であり、 その死体は我々が常に携帯せざるを得ない文明の持ち運び道具、「鞄」のようなものである。 生きる価値、死ぬ価値、生きていることの意味、死んでいることの意味。人間であることの即死的イメージ。 そして気付いた。もう何年も昔から、私はこうして歩いてきたのだ。 その気になれば出口だって埋める場所だって見つかる山の中を、男の死体を背負ったまま、何年も前から歩いてきたのだ。 そして死体はいまだ暖かい。やがて私は「私」が段々人間としての温もりを失っている事に気付く。 まだ埋まるべきではないようだ。