<忘却> 忘却した。 総てを忘却した。 別に何の意味もない。誇張でもない。抽象的表現でも比喩的表現でもない。 ただ、その言葉どおりの、そのままの意味での現象が起こっただけだ。 それだけだ。 朝起きて、私は何か異質な空気を確かに感じて取った。不気味な、まるで大切な何かを失った時に起こるあの空虚感に似ている。 私はしばらくベッドから動くことができなかった。ここで反応してしまえば、きっと何かが起こる、何かが始まるんだ。 そんな薄暗い気持ち悪さが続いた。 一時間してからのち、ようやく気が楽になったので妻を呼ぼうとして立ち上がった。難なく立ち上がれた。 重荷が取れ、気持ちが弾み始めたので、ここぞとばかりに叫ぼうとした。しかし、そんな私を再び空虚が襲う。 「妻の名前は……」ひやりと汗が背を撫でる。 思い出せない。十年来呼び続けてきた妻の名前が、どうしても思い出せないのだ。 まるでこの十年が一夜で消えてしまったのではないか、とさえ思ってしまう。 初めは夢だと思った。いや、夢を見ているのではなく、夢を見ていたのだ、と思ったのだ。 妻と十年暮らした夢を一晩の間に見た、という説明ならば合理的に解決できる。 夢ならすぐに消えてしまうだろうし、考えようとすればするほど、それは遠ざかるものなのだ。 私は深く考えないことにして居間に行き、しかし妻には顔を見せないようにして、妻が作った朝食を黙々と食べ始めた。 朝食を食べた後、今日の予定を思い出そうとした。しかし、思いも付かなかった。 しかし妻に聞くのは、なぜかとても恥ずかしいことのように感じられたので「ははぁ、また夢の空虚だな……」そう自分を納得させてのち、街を歩いた。 気晴らしに、何気なく歩いていた。今日の予定を忘れた以上、こうするしかなかった。 数十分歩くと、小さな広場があった。 「この広場が目に付いた以上、この広場で休むしかない」と勝手に哲学者ぶって、ほくそえみながらベンチに座った。 座った瞬間、またあの空虚感が訪れた。そしてその空虚の根源は、目の前の女だということが分かった。 自分はその女を知っていたし、その女も私に何かしらの用事があるみたいなので、話しかけてみた。 名をロイスというその女は、私に「久しぶりですね」と言った。しかし私の記憶に、そのロイスという女は欠片も登場しなかった。 知人であるにも関わらず、私はロイスを知らない。不思議な現象が起こった。しかし、別に深くは考えなかった。 過去に一度会い、そのことさえも忘れるほどの年月が経っているなら、この忘却も当然だと思われた。 しかも、私には「夢の空虚」という強大な味方がついている。 唯一の心残りは、その後に「一ヶ月ぶりですね」と言われたことだった。 それから数分後、ロイスは去った。私は再び歩くことを余儀なくされた。 仕方なく五分ほど歩いていくと、とある十字路で私は女にぶつかった。 これは初対面であった。なぜなら、今度は知人という間隔さえないのだから。 そして軽く謝礼をしたあと、この女と親しくなることが出来た。どうやら、女は私の家の方角に向かうらしい。 どうせなら……ということで、私も家に帰ることにした。当然の成り行きとして、女がついて来た。 他愛もない会話がしばらく続き、女は「外国人のような顔ですね」と言った。私は納得しかけたのち、恐怖を覚えた。 自分の顔が思い出せなかったのだ。私はポケットに入っている手鏡を取り出そうとして、しかしまた恐怖した。 自分の顔を確認しなければならないという事実が、とてつもなく怖ろしかった。 私は女を待たせておいて、先ほどの広場のトイレに駆け込んだ。恐る恐る、自分の顔を横目で確認した。 そこには見たこともない顔が映し出されていた。 「成る程、これなら思い出せなくても無理はない」そう思った。 「それに、これらの現象は、全て夢の空虚で説明できる」 私は、この女なら妻の名前を知っているかもしれないと思い、尋ねてみた。妙な返答が返ってきた。 「奥さんですか?カメルさんでしょう?」と言ったのだ。 カメル……いくら考えても、過去にそのような人物は存在しなかった。 「まぁ、いい」そう言ってごまかした。一つの疑問が浮かび上がった。何故、この初対面の女は妻の名前を即答したのだろうか。 しかしそれを問い詰める事により、尋ねた私にも罪の存在が考慮されるので、あえて水に流した。 幸いにも、女はそのことについて言及しなかった。 しばらく女と歩き、やがて女と別れた。当然ながら、私は家の前に居た。 「さて、これからどうすべきか……」その問いに答えてくれる人はいなかった。 何かを思いついた私は、もう一度広場に行った。そこに誰もいないことを確認すると、真っ直ぐにベンチへと向かった。 そして周囲を俯瞰視してみた。 くすんだ街は、今日も慌ただしく濁っている。 これが現実。 これが今。 ならば昨日までのくすんだ街並みは? 昨日までの私の人生は? あれが全て一晩の幻想とは思えない……つねった頬は、確かにひんやりと痛んだのだ。 しかしそう定義付けなければ、この忘却を説明することができない……どれが夢でどれが現実なのか―― またしばらくすると、黒い制服を着た男が二人、私の前に立った。 「来ていただけますかな?」私は最早拒めなかった。 着いた先は、裁判所だった。私は迷わず、そして疑わず、自然な成り行きで法廷に入った。 中ではすでに大勢の人間が私を待っていた。裁判官が大声で言った。 「やっと最後の証人テイラー君が来たか」 この言葉にはきっと深い意味があるのだろうが、私には全くの「夢の空虚」としか思えなかった。 「では、証言したまえ」と裁判官は私を見据えて怒鳴った。やむを得ず、忘れた、と答えた。 裁判官はカンカンになって怒り、「では、何故お前はここにいるのか」と言った。 「ここに存在する理由があるからです」 胸を張って答えたが、さっきの裁判官同様、全くの空虚にしか思えなかった。 「その理由とは何か」 「忘却の結論です」 「テイラー、お前は忘却の果てに何を見出したというのだ」 「思考の無価値を見出しました」 「馬鹿げている!」 裁判官はいよいよ怒り狂い始めた。 「そんな答えが認められるものか!」 「しかし、現に答えはこの身を持って体験したのですから……」 私も必死になって反論した。 「よろしい。では、証人はいるのかな?」 「証人ですか。いますとも」 「では、名前を挙げよ」 「……カメル」 「カメル?」 「いうまでもなく、私の妻です」 「よろしい。誰か、テイラーの妻をここに呼べ!」 程なくして先ほどの男達が、カメルを連れてきた。 「結論を聞こう。被告人テイラーは有罪か、無罪か」 私はカメルに祈った。無罪と信じていても、何もしていないと分かっていても、法廷ではそうしないといけない気がしたので、そうした。 「有罪です」 カメルは断言した。 「ほほう」 裁判官は機嫌をよくした顔でうなずいた。 「しかし、証拠は必要だ。証拠はあるかな?」 「夫、テイラーは私の名前を忘れました」 『重大な犯罪だ!死刑!』 あちこちから罵声が飛び交った。裁判官はそれを止めず、むしろ楽しげに髭をしごいていた。 「今の証言だけで、もはや有罪は確定となったが、刑罰の重さを決めるため、別の証言も必要だ。誰か、他に証人はいるかな?」 「ええっと、確か、ロイス……」 「名前を言われてもわからん!具体的にどういう人物なのかを説明せよ」 「昼間会った……ええっと、久しぶりに会った女ですね」 「よろしい。誰か、昼間久しぶりに会った女をここに呼べ!」 程なく、ロイスは現れた。 「結論を聞こう。被告人テイラーに与えるべき刑罰は?」 「無論、死刑です。だって、私のことを知人としては認めるものの、存在としては完全に忘れていたんですもの」 法廷内がざわつきだした。賛同の声がこだました。ロイス氏が可哀想だ、と泣き出す者もいた。 「では、テイラーは死刑――」 「ちょっと待ってください!」 私は顔を赤らめて言った。 「まだ証人がいます!名前は分かりませんが……これも昼間あった女です!」 「よろしい。名前はどうせ個人の判別に使用する記号のようなものだから、そんなものはなくてもいいぞ。さぁ、昼間会った二人目の女を呼べ!」 程なくして、その女が現れた。 「結論を聞こう。――えーっと、何を聞けばよいのかな?」 「私の犯罪の真偽です!」 私はすかさず叫んだ。 「よろしい。どうせ死刑だ。構わん。では昼間会った女。証言せよ」 「証言します。テイラーは無罪です」 「ほほう。証拠は?」 「有罪の証拠が何もないから無罪なんです」 「テイラーは妻の名前を忘れていたぞ?」 「妻の名前をちょっと忘れただけで死刑になる罪なんて馬鹿げてるわ。第一、テイラーは私にカメルさんの名前を聞いた。 努力はしたのよ。もう一度言う。テイラーは無罪」 「わかった、テイラーは無罪にしよう」 意外に裁判官は物分りがよく、私は安堵の気持ちでいっぱいになった。 この裁判が終わり、忌々しい裁判から開放されれば、「夢の空虚」からも逃れられるのだろうか。 しかし、私の安堵をよそに、女はさらに発言をした。 「でも。テイラーは死刑だわ」 私は目が点になった。今しがた無罪と主張したのに、何故死刑を勧めるのかがわからなかった。 「だって、妻の名前忘却事件はさっきの弁証で無罪となるけど、ロイス氏の忘却事件は弁証してないんですもの。死刑以外の可能性はありえないわ」 私は愕然とした。確かにこの女はロイス氏の忘却については何も言っていなかった。 「じゃあ何か弁証してくれ!」 「そんなこと言われても困るわ。私、ロイスさんのことは何も知らないもの。弁証なんてできない」 「まぁ、そういうことだ」 裁判官が嬉しそうにその場を制した。 しかし、刑罰というものは有罪の人間に課せられるものである。ゆえに刑罰なのだ。 無罪となった今、刑罰を受ける義務なんてものは、存在しないのだ。 「裁判官!刑罰という物は有罪の上に成り立つものであり、無罪の人間に対して行使してはならない崇高な儀式です! 無罪となった私には必要のないものです!」 すると裁判官は諭す様に言った。 「考えてみたまえ、テイラー君。君は確かに無罪となったが、死刑の可能性は否定できないと証人も言っていただろう。 ならば刑罰は罪人が受ける物という道理から考えれば、君は有罪になるのだよ。私だって公平な裁判官だ。道理には反したくない。 だからこそ君は有罪だ。死刑の可能性が消えない限り、因果律によって有罪の可能性は当然消えない。まちがいなく君は犯罪者だ、テイラー君」 「そんなものは卓上の空論です!ただの理屈です!」 「理屈で攻めあうのが裁判というものだろう。何を今更……」 裁判官は小さく笑い、改めて姿勢を正した。 「さて、諸君。賢明な君たちにはもう理解できたであろう」 皆が同時にうなずいた。 「被告人テイラーは死刑執行の因果によって有罪!」 確かな証拠がなくても、権力と武力と過半数以上の賛成があれば、一方的に悪者になってしまうのか。 それは許されることなのか。 私は……夢を見ているのか? そうして総てを忘れ、忘れるものがなくなり、それでも忘れようとする自分を忘れた。