<大地1>

その時、男は読書をしていた。

喫茶店『大地』の二階で、世界と自身の大きな変化をも知ることなく、ただ愛読書に耽っていた。


男には失って困るものなどひとつもなかった。その気になれば命を棄てることだって厭わなかった。

いや、例外が存在した。男にとって最愛のものが存在した。それは先ほどより男が読み耽っている、愛読書である。


幸せの第一歩は、知らないこと。この、大地を浴びた男にとっても、それは言えることだった。

何も知らないから、男には珈琲を注文する勇気があった。


大地は荒野になった。見渡す限りの黄土色。まさしく大地は裏切りを始めていた。

人、ビル、山、海、そして愛読書をも、大地は覆してしまった。

残されたものは、愛読書に救われたこの男ただ一人であった。


男には何が起こったのかわからなかった。だからうたた寝からうすら眼を開いたとき、ことの重大さに気付きもしなかった。

周囲は見渡す限り荒野だった。ビル群が大地に変わった。注文したはずの珈琲も消えていた。


大地の侵食は止まらない。大地は次々に心を蝕む。

世捨て人、厭世詩人、ビルの間に詰め込まれた乞食……夢追い人……


翌日になっても大地は世界を侵し続けた。すでに男も大地を浴びていた。

為す術もない。

ふいに、男は涙が頬を伝うのに気付いた。慌てて拭い、しかしそんなに慌てる必要などなかったことに気付いた。


男は孤独だった。しかし決して惨めでも淋しいわけでもなかった。

なぜなら、『男は大地を浴びた』からだ。男は大地とともに世界の荒んだ影を喰らう。

満たされる保証などないのに、男は侵食を続ける。


男はどれだけの世界を喰らえば大地を有することができるのだろうか。

大地の中に生き続け、大地とともに喰らう者。それは孤独な旅人なのだ。

誰かが心を潤せば、きっと男は大地から開放される。

しかしその解決策はあまりにも矛盾していた。


夜。男は侵食をやめた。

世界は滅んだ。

愛読書を嘆いた男には、もう世界を喰らうことなどできなかった。

男は悩み抜いたあげく、ひとつの解決策を講じた。


朝。男はゆっくりと大地を植え込んだ。

創造の兆しが、世界を暖かな光で包んだ。