<大地2> その時、男は喫茶店『大地』の二階にいた。 愛読書『大地になった男』の世界に耽って、濃い目の珈琲を啜っていた。 呑気といえば呑気ではある。唯一無二の時間を効果的に用いているという点を指せば、賢明ともいえる。 店にはこの男以外誰もいなかった。 勿論、一階には店員三名が今か今かと客を待っているし、外には師走の町並みを駆け抜ける慌ただしい人々で溢れ返っていた。 だが、この『大地』の二階にはこの男しかいない。 数奇な事もあるものだ。普段ならカップルや老人で満たされるこの空間が、どういう訳か今日は欠落している。 まるで心に大きな穴が開いたようだ。 それでも男は愛読書に耽り、珈琲を啜っていたのだ。 男の珈琲はいつも濃い。薄目の珈琲を出せば、すぐに文句を垂らす。 作家である彼には、常にしかめっ面をする義務があった。そういう持論を、彼は持っていたのだった。 そしてそれは濃い目の珈琲と『大地になった男』をもってしてのみ解決されるものだという確信もあった。 だからこうして愛読書と珈琲を欠かさないのだ。 さてその時、外では小さな異変が生じていた。 先頃からちらほらと見られていた雪が、少しずつ勢いを増してきたのだ。 人々は皆フードを被ったりして雪を凌いでいたが、益々吹雪は荒くなる。 やがて人々は耐え難くなって、各々雨宿りならぬ雪宿りを探した。 結果、この『大地』にも大勢の人が避難してきた。しかしそれは一階での話で、二階は依然として静かだった。 不思議なものだ。これだけの人間が集まりながら、誰一人として二階に上がろうとはしないのだ。 男にとっては、結局日常の一部分でしかなかった。 しかし書き物の材料くらいにはなるだろうと、大体の状況を持参のノートに書き記しておいた。 雪は相も変わらず降り続いている。 ――と、男は書き終えた文を読み返してみた。 それほど素晴らしい出来栄えでもないし、特筆すべき場面や工夫もない。 ただ、男にはこの平凡な、日記のような文がとても美しく思えた。 気温、零下三度。 雪の降るこの町に少しでも暖かい『大地』の温もりを感じたことは、 この冬一番の経験であったと、男には思えて仕方が無いのであった。