<愚決>

「もうな、無理なんや。見てるだけでイライラするねん」

薄暗い部屋に、それほど大きな声でもないのに響き渡る。

「でもさぁ、おかんかて我慢してるとこあるねんで。なんもおとんだけが苦労してる訳やないねんで」

「そんなんお前に言われんでもわかっとる。俺かてあいつに色々迷惑とか苦労とかかけてきた。

悪いと思ってるんや。そら胃も痛くなるて。そんなんな、わかっとるんや」

母は一週間程前から胃痛に苦しんでいた。本人たちは気でも遣ったのか何も言わなかったが、原因は明らかだった。

二人の表情の端々に表れる歪な刻みが、それを酷く象徴していた。それを見る度に俺も胃が痛んだ。

気分は落ち込み、やる事なす事うまくいかず、八つ当たりも目立った。

「おかんもそうゆっとった」

「何をや。どーゆー意味や」

「うちも悪かったんや、って」

「……」

不快な静寂が、薄暗く広いリビングに佇む。こんな大きくて豪華な部屋は、今の会話には全く相応しくない。余計涙を誘うばかりである。

「……お互いが自分の非を認めてて、なんで解決せぇへんの?」

「……」

次第に俺の気分は静寂に押しつぶされ、ボソボソと口先だけでしか物を言えなかった。

「結局さぁ……こんなんガキの俺が言うんも変やけど、意地張った手前どっちも引けへんなっただけなんと――」

「やかましい!」

聞きなれた声。耳を裂き、脳に響く声。この怒鳴り声さえ、これからは耳にすることがなくなるのだ。

それが善いことなのか悪いことなのか……俺には一切判断がつかない。ただ、きっと淋しくなるだろうという感覚だけは、確かにある。

俺はそれが悲しい。だけど悲しいことが悪いことだなんて決め付けるのも間違いだ。

ここまで事が進んだということは、それなりの背景があったということだ。

「なんもな、一生懸命知ろうとせんでもええねん。理解でけへんもんってのがこの世にはある」

「……俺はそーゆーつもりでもの喋ってるんやない」

「え?なんて?」

「……」

いつもそうだ。ガキは蚊帳の外。

「それにな、これは別に昨日今日で決めた話やないんや。結婚当初からずっと話してきたことなんや。

お前らが大きくなるまでは、って俺らは我慢してきたんや」

「契約済みやった、ってことなん?」

「誰も約束したとはゆうてへんやろ」

「変わらへんやん……」

論理性の欠片もない。きちんと納得のいくまで決着をつけてもらいたい。これは夫婦間の問題ではなく、家庭内での極めて重大な問題なのだ。

「俺のな、あいつの一番嫌いなとこはな、酒くろうてキレるとこやねん」

「ええやんか。おとんはキレて出て行けば頭冷やせるけど、おかんはそれがでけへんねんから……酒ぐらい」

「飲んで終わるんやったらかめへんやんけ。あいつはな、それが酷いんや。

一杯や二杯で終わらん。地面ほうて支離滅裂になるまで飲むんや。そうなったらどうなると思う?」

「わからん。俺、おかんのそんなとこ見たことないし」

見たくもない。

「あいつな、酒飲んだら理性利かんなるんや。俺に対して『おのれ』ってゆうんや。考えられへんやろ」

本当に信じられなかった。

誰と話す時だって『うちの主人は本当に素晴らしい人なんです。心から尊敬してます』と自慢げに語っていた母が、そんなことを言っていたなんて……

「俺ももう堪えられへん。喧嘩して飲む度にそんなんや。そうなったら出て行っても心配ですぐ帰ってこなあかんやろ?

酔うたら何しでかすかわからんし。しゃーから気持ちの整理がつかんまま俺が折れてきたんや」

あの母がそこまで言うのだ。母だけが悪いはずはない。

「じゃあ……いつ帰ってくんの?」

「わからん。二、三日かも知れんし一週間かも知れんし、一生帰らんかも知れん」

俺はもう涙を抑えきれなくなっていた。幸い父が背中を向けていたので、ほんのちょっとだけ涙を落としてみた。

「……俺が小学校ん時から周りに自慢してきたことはな、晩飯を家族みんなで食べてることやってん。

そこでテレビ見ながら色んなこと話しあってることが自慢やってん。

たまには意見の相違から喧嘩まで発展したりすることもあったけど、どれもみんな俺にとっては自慢できることやってん。

その一部分が欠けてまうなんて、俺には考えられへん」

「……まぁとにかくあいつもしばらくしたら男連れてくるやろ。それが一部分を埋めるんやないか?時間が解決するっちゅー話や。

何日か何年か何十年かは分からんけど。そん時にお前が堪えれるか、や」

「堪えられん。だからどっちにもついていかん」

そこらでのたれ死んだ方がマシだ。

「なぁ、ほんまにもう変えられへんの?もっかい話し合ったらええやん。今度は俺らも含めて。それから決めても遅くはないやろ?」

「……」

「……」

再び長い沈黙。雨が降ってきた。激しくもないし、陽光がない訳でもない。

俺の涙のように、静かに大地を湿らせて止んだ。涙雨とはかくも切ないものだったのか。

母が降りてきた。無言で珈琲を二杯淹れ、俺と父の前に差し出した。それからもう一杯淹れて、俺の隣に座った。

俺も父も、カップに触れることすらできなかった。ズズズ……と母の啜る音が鈍く響いた。

静寂を破ったのは、不敵にも俺自身だった。

「もっかい話し合ったらええやん。今度は俺らも含めて」

二回目の言葉。意識も何もなかった。気付けば口を開いていた。黙ってる父への念押しと、母へ送った救済願い。

「……うん。そうやって話し合って、謝って済む問題やったらこんなに発展はせんかったんよ」

「そーゆーことや。お前も大人んなって嫁はんもろたら俺の気持ちがわかるわ」

『俺の気持ち』ってどーいうこと?母の気持ちは?

「お前のゆうことはみんな正しいんかもしれん。でもな、世の中正論だけでは済まんことだってあるんや。それが人間や」

「あんたもな、一人前の男やったら理解せなあかん」

「とりあえず上行け。あとは二人で話着けるから」


一人前の男って何だ?一人前なら最後まで参加させてほしい。ガキなら端から黙って出て行ってほしい。

確かに俺はまだ若い。父や母からすれば、ただのガキだと思う。じゃあ一人前って何だ?普段はガキ扱いで、都合のいい時だけ一人前で……

その晩、俺は二時まで起きて色々考えていた。夫婦というもの。男女というもの。家族というもの。そして自分自身というもの。

何の為に生まれ、何の為に生き、何の為に死んでいくのか。俺が生きていることに、何らかの理由や使命があるのか。

ただ生きているだけなら、死ぬことと変わらない。人間も生まれる前は死んでいる。ただ、生きている間だけにしか意識が存在しないだけだ。


自殺――を考えたことが何回かあった。

しかしその度に愚決を抑えてきたのが

「人は何かの為に生まれ、何かの為に死んでいく。今ここで命を絶つことは、そういう運命から逃げているだけに過ぎない」

という考え方だった。

今、俺は、この考えの根本を揺るがす問題に直面している。

この考え方が間違いであったのならば、自殺を抑制してきたことが間違いになり、今ここで生きていることさえ間違いになる。

父が頭を冷やして帰ってこれば、この問題は消える。早とちりな両親の愚決も、水に流せる。

だから起きていた。いつも夫婦喧嘩のあとは、父は二時頃に帰ってきていた。今晩もそうなるはずだった。


――しかし、父はもう帰ってこなかった。