<川向こう>

 一

「川向こうには近づくな」そう教えられてきた。

もちろん生まれて今まで「川向こう」に行ったことはないし、多少の興味はあるけども別に慣例を破ってまでして行こうとは思わない。

そもそも川自体が、住んでいる地区からは遠い。だから無理に近づかない限り見ることもない。

それにこの街の人間全てが協力して、子供を川に近寄らせない。小学校も中学校も、川から遠く離れたところにある。

だから私も行ったことはなかったし、見たこともなかった。

「川向こう」ってなんだろう。そう思ったことは確かにあった。

ううん、意味上は「川の向こう側」なんだってことは分かってる。問題は、その「川向こう」がどんな理由で避けられているのか。

同級生のよっちゃんが、川の近くに住んでいる。

話を聞いてみたら、どうやら「川向こう」にはこちらと同じような街があって、同じように川には誰も近づかないらしい。

学校では、川の話はしない。見つかったら親に迷惑がかかっちゃう。

一度、好奇心旺盛なダイちゃんが「川向こう」について喋ってたことがあった。それが先生にバレて、ダイちゃんは滅茶苦茶怒られてた。

その後、しばらくの間学校に来なくなった。

私の両親も、「ダイちゃん、川向こうについて話してたみたいよ。一体どんな教育をしてるのかしら」って言ってた。

帰ってきたダイちゃんを見て、みんな驚いた。ガリガリに痩せて、かつての勢いはどこにもなかった。

「もう川向こうなんて御免だ!」が口癖になっちゃって。

「川向こう」は人を変えてしまうんだ。

知らず知らずの内にそれが常識になっちゃって、私たちは一切、「川向こう」について考えることを止めていた。


 二

「川向こうには近づくな」そう教えられてきた。

家での躾でも、学校の授業でも、友達と遊びに行く時でも。

縛られるのが嫌いな僕らは、自然「川向こう」の誓約が嫌いになった。そして僕らは、その反抗心からとんでもない計画を実施した。

友達三人と僕の四人でそれぞれ手紙を書いて、「川向こう」へ流すんだ。

「川向こう」の奴に届けば、もしかしたら仲良くなれるかもしれない、そう思った。

少し背の高い草むらから顔を出して、こっそり覗いてみた。別に普通の川だったし、「川向こう」も僕らの街と同じ、住宅街だった。

「おい、早いとこ流しに行こうぜ」そういう友達に、「見つかったらヤバイから、僕はここで見ているよ」と言った。

「なんだよ、根性なし。いいや、行こうぜ」手紙の入ったボトルを持って、目を輝かせながら友達たちは出て行った。

根性なしと言われるのは慣れている。昔から浴びせられ続けた言葉。僕のあだ名ともいえるほど、皆に知れた呼び方だった。

しばらく川を見ていたら、友達たちが行った方から自転車の音が聞こえた。そして友達たちの悲鳴が聞こえた。

たまたま巡回中だった警官に見つかったらしい。僕は怖くて、ボトルを握り締めたまま走り出した。

それからというもの、彼らを見たことはない。だから「川向こう」は恐怖だった。


 三

そうやって私は成長し、「川向こう」を知らないまま高校生になった。私の悩みは、最早「川向こう」ではなくなっていた。

コウくん。富岡弘毅くん。隣の席の彼。私は彼を見ていると胸がドキドキする。

コウくんはクラスの人気者で、リーダーシップのとれる好青年だった。

私なんかじゃ無理だ。もっと私にピッタリの彼がいるよ。そう思っては自分を慰めていた。

だけど、私が落とした消しゴムを拾ってくれる時のあの笑顔。コウくんの手に触れた時のあの温もり。優しい空気。それらが私を狂わせる。

もうコウくん以外見ていられなくなる。

クラスの男子は、そんな私の気持ちを知ってるみたい。でも、コウくんだけは分かってくれない。

もしかしたら、私自身がわからないようにしているのかも知れない。私が、コウくんに気付かれないように、一生懸命なのかも知れない。

でも、本当は気付いてほしいんだ。

お願い。振り向いて、コウくん……


 四

三人の友達は刑務所に入れられたらしい。どこをどう流れたのか、僕の耳にもその噂は入ってきた。

僕という根性なしは、一人だけ助かってしまった。こんな自分が恨めしい。

僕は変わるぞ!根性なしなんてもう嫌だ!そう心に誓った。そして彼らが帰ってきたら謝るんだ。

でも、彼らは僕が高校生になっても帰ってこなかった。やがて川のことも思い出の片隅に追いやられ、僕はすっかり忘れ去っていた。

桜花は皆散ってしまい、枝々は青々とした葉で満ちていた。その青さと同じくらい未成熟な僕の胸の中は、一人のオンナノコで一杯だった。

恋、なんだと思う。初めての体験だった。でも僕と彼女は、この間ようやく知里って呼び捨てできるようになったくらいの関係。

しかも美人な知里には彼氏がいるし、その彼氏ってのも学年一の好青年なんだ。もう知里は僕の手の届くところにはいないんだ。

それでも知里には僕の気持ちを伝えたかった。僕が、どれだけ知里を想っているのか、伝えてから消えてしまいたい。


 五

私はついに決心した。コウくんに恋文を書くんだ。それで、私の想いを知ってもらうんだ。

そうしないと私の胸ははちきれそうになる。もう抑えきれない。

決心した夜、便箋を買いに行った。桃色の、優しい香りのする紙。私の一番のお気に入り。

三枚買ったけど、文章の下手な私には一枚しか書けなかった。それでも私にとっては何よりも大切な手紙だった。後は渡すだけだ。

だけど、それができないままひと月が経った。

ある日。今日こそは渡そうと鞄に入れて登校した私に、衝撃が待っていた。

それは朝の会の終わり際、担任が思い出したように言った言葉。

「あ、そうそう。えー、皆さんに哀しいお知らせがあります。このクラスの富岡弘毅君が昨晩、川に落ちて亡くなりました。

何でも、川に溺れていた猫を助けようとしたらしいのですがー。ま、川に近づいたんだから仕方のないことですよね。

真冬ですし、堤防は高いですし。皆さんも川には近づかないようにしましょうね」

私はしばらく胸の内に秘め込んでいたことを思い出した。

「川向こう」って何?

人の死と「川向こう」。先生は川に近づいたんだから仕方がないって言ってた。

じゃあ「川向こう」って何?人の死さえも軽くしてしまう「川向こう」って何なの?

向こうには何がいて、何があるの?何をそんなに忌み嫌っているの?

私、泣いてた。初めて他人の為に涙を流した。今までの私では考えられなかった。

変わってしまったんだね、私。だって「川向こう」を受け入れられなくなったんだもの。

それがいいことなのか悪いことなのか、私には分からない。前の私ならきっと悪いことだって言ったと思う。「川向こう」は絶対だった。

でもコウくんを失った今の私には、それは何の意味も持たなかった。今、私に真実を告げてくれるのはこの恋文だけ。

渡せなかった恋文。それが、以前の私を酷いくらいに否定している。「川向こう」の概念さえなければ、私はすぐにでも手紙を渡していただろう。

腫れ物には触らない、それが私を知らず知らず蝕んでいた概念だった。

ああ、憎い!「川向こう」が憎い!!

ダイちゃんを臆病にし、私を知らず知らずの内に蝕み、挙句の果てにコウくんを奪った。憎い!

だけど、皮肉なことにコウくんの死に場所は川なんだ。私は天国に行ってしまったコウくんに手紙を届けたい……

それにはあの災厄の源、川に手紙を流すしかないんだ。

翌日、私は黒く淀んだ川のほとりに立っていた。初めて川を見た。この汚い川が、猫を助けようと飛び込んだ清いコウくんを奪った。

私は堤防を乗り越え、川に落ちないようにそっと手紙を流した。

どす黒い水が手紙を染めていき、私とコウくんの叶わない恋をあざ笑っていた。


 六

正念場だ。とある放課後、たまたま日直で残った知里。他には……僕以外にいない。

「ち、知里。今日は彼氏と帰るの?」

「雅?先に帰ったよ。用事あるんだって」

「そ、そっか……」

僕の気持ちを伝えるなら今。今しかない。

「雅くんと……最近どうなの?」

違うだろ、僕!哀しくなるだけじゃないか!

「雅と?うん、普通に仲いいよ。どうしたの?」

「いや……なんでもないんだ……ごめんね?僕、もう帰るよ!」

「え?あ、じゃあさよなら」

僕はなんて駄目な奴なんだ!根性なしは全く直ってないじゃないか!!これじゃ三人に顔向けできない……僕は何年経っても根性なしなんだ。

――違う。僕は変わるんだ。変わらなければいけないんだ。あの「川向こう」へ、あの日できなかったことをしに行くんだ!

あの日の手紙は未だに机の中にある。流すだけでいいんだ。届いてくれれば、僕は少しは変われるんだ。

行こう、あの川へ。僕と、僕の友達たちの約束を終える為に。そして生まれ変わって、知里に愛を告げる為に!

僕は走って家に帰り、急いで机の中の手紙を取り出した。

「お母さん、行ってきます!」

「はーい。川向こうへは行っちゃ駄目よ」普段ならここで良い返事をするんだけど、今日だけは黙ったまま家を出た。

少しずつ、少しずつ、僕は変わり始めていた。

川についた。あの時のまま、川は流れていた。そして相変わらず「川向こう」も存在していた。

高鳴る心臓、波打つ胸。それらの抵抗因子を一つずつ一生懸命堪えて、僕はそっと手紙を流した。

なんてことはなかった。手を川の上にかざす。そのまま手を開く。そうすれば手紙の入ったボトルは川に乗って流れていく。

これだけのことができなかったんだ、根性なしと呼ばれても仕方のないことだった――

僕は変われたのかな。今警官が来れば、僕も刑務所に入る。あの友達たちと同じ運命を辿る事になる。

それは勇気なのか?根性のある行動なのか?

僕は手紙を流したんだ。返事が来るまで、刑務所なんて入るべきじゃない。

背後で自転車の音がした。僕は逃げた。だけど、それはもう恐怖なんかじゃない。

将来、そして「川向こう」への希望の光。それを絶やさぬよう、僕は退くのだ。

いつかきっと、あの手紙の返事が来るんだ。それまで、僕は今の気持ちを失ってはいけないんだ。


 七

ふと上流を見上げると、不思議なボトルが流れてきた。

危うく見過ごすところだったけど、中に入っている手紙を見て、慌てて木の棒で寄せて拾った。

なんとその便箋は、どこにも売ってない紙でできていた。

私だって思春期のオンナノコ。授業中の手紙のやり取りは日常茶飯事。便箋も、売られているものはみんな持ってる。

だけど、この手紙は見たことのない便箋に書かれていた。

「これって……川向こうからの手紙!?」

私は慌てて手紙を開いた。そこには不器用な字で、簡素に書かれていた。

「こんにちは。突然ですが、この手紙を読んでくれたあなた、僕と友達になりませんか?

僕は川向こうのあなたとお話がしてみたいです。この川のほとりで、気楽にお喋りしましょう」

そしてその後に、慌てて書き加えられている文が続いていた。明らかにさっきの字とは違って大人の字だった。

「もう自分に甘える人生は嫌だ。誰かに規制された人生も嫌だ。僕は僕の意思で生きる。僕は川向こうの全てを知りたい」

そして一番印象に残った最後の一文。

「僕は変わったんだ」

気付けば、私の足は手紙の流れてきた方へと歩き出していた。

この先に自分と同じ人がいるんだ。自分と同じ、変化した人がいるんだ。

私が正しいのか間違っているのか、それを誰かと共に考えることのできる日が来たんだ。

私は清々しい気持ちと変に焦る心で胸が溢れていた。

この先、私はどうなってしまうんだろう。「川向こう」と交流できたとして、それが一体どんな意味を持つんだろう。

いや、今となればそんなことは川の流れに任せるしかない。

川が運んだ手紙を読んで勝手に足が動いたのは、紛れもなく川の作った流れなんだ。

川は、二つの想いを一緒にしてしまった。

いつの日か私たちだけでなく、両岸の全ての人たちの想いをも一つにできるのだろうか。

そうなれば、もう「川向こう」なんて言葉は無くなるのだろうか。