<猫> 私はアメリカンショートヘアーという種類の雌猫だ。体中に縞模様があって、耳は立ち、尾は常にしゃんとしている。 家猫には珍しく、脚の速さではそこいらの猫には負けない。 この家ではミルクと呼ばれているみたいだが、集まりではお嬢様とかご令嬢 (一人だけ血統書付きで人間に飼育されていることから由来) とか呼ばれているので、みんなが呼んでいても案外気付かなかったりしてしまう。 まあ、面倒くさいので気付いたとしても、こちらに用件がなければしらんふりをしてしまうが。 もうこの家に来て二年になるが、小屋は二回ほど変った。 初めは玄関、洗面所、家と庭に挟まれた小さな隙間。どこでもいいが、囲いと首輪とロープはやめてほしい。 目の前を無防備に虫が跳んでも、フラフラと鳥が飛んでも、追いかけることができない。ただ見ているだけである。 猫は基本的に負けず嫌いだ。捕らえられる獲物を他の者の手で止められると、なんともいえない屈辱感に襲われる。 虫にけなされ、鳥に笑われるのだ。近所に住んでいる野良の雌猫たちには馬鹿にされ、雄猫たちにはいらぬ同情をもらう。 それだけでも苦しいのに、首輪の周りに蚤、虱が湧く。普通なら舌で嘗め捕ってしまうのだが、首輪のせいでそうも行かない。 刺され、血を吸われ、腫れ、痒くなり、しかし掻けない。 正直、自由な野良になってみたいと思う。気の向くままに生き、狩りをし、毛繕いをする。 そして付近の野良猫どもを従え、帝王となる。暖かくなったら昼寝をし、寒くなったら仲間たちと寄り添いあう。格子の外は憧れだった。 ある日、私は手術を受けることになった。何でも、子宮を取り除いて子供を作れない身体にしてしまうらしい。 同じ病院から女に抱かれて出てきた雑種の雌が、泣きながら言っていた。腹を掻っ捌かれて、子宮を切られたと泣いていた。 入ってみると、病院の中は異様な光景だった。涎を垂らした汚い犬が無闇に吼え散らし、背の曲がった猫が奇妙な泣き声を上げながら走り回っている。 と思えば、今度は完全に無気力な、植物のような奴もいる。 この光景、一生忘れないだろうな、と思いつつ、順番を待っていた。 覚悟は出来ていた。というのも、ここで泣いて暴れればさっきの雑種と同じレベルになってしまうからである。それでは狂った病犬や、奇形の猫と変らない。 だが、出来ることなら受けたくないな、とは思った。 やはり子供を育ててみたいし、何より手術を受けると、自分の、仲間への友情、愛情が薄れてしまうらしいのである。 それでは私に対する周りの差別、反発感情がより一層酷い物になるのは必至である。 しかし、希望もある。もしかすると、格子を脱出し、自由になれるかもしれないのだ。その為の手術である可能性がある限り、ここは黙って待つのみである。 順番が回り、私は寝台に寝かされた。白衣の人間達が周りを囲み、その中の一人が針の様な物を手にしていた。 あっという間に針は私を突き刺して、中の液体を注入していく。体中を激しい痛みと後悔の戦慄が走る。その中に妙な安堵感を覚えた。液体の力だろうか。 そのまま眠たくなり、辺りは瞼の闇に鎖された。 目が覚めた。まず腹の痛みを覚えたが、大した痛みではない。動ける。 そして瞳が捕らえたのは、いつもと変らぬ風景、格子、首輪、ロープである。 私は憧れの風景、恨みの格子は常に見てきたが、ロープは余り見た事が無い。首輪なんぞは生まれてこの方、一度しか見ていない。 恐る恐る振り返る。そこは冷たい家の暗い壁ではなく、陽光の射す、明るく広大な世界だった。 もう一度振り返る。狭苦しい、ちっぽけな格子の小屋があった。 ――自由だ。 そう感じた瞬間、私は身体が何時もよりずっと軽くなる様な感じを受けた。 腹の痛みも感じない。私は今こそ野良になる好機、と決心をし、思い切って庭から飛び出した。 勢いよく外界に飛び出してみたものの、そこは全く未知の世界である。暫くあたりを見回していたが、これといって小屋になるような所は無い。 人間の言葉を借りるが、ここは住宅地、元々猫が住むべき所では無いのだ。道に迷わぬよう、臭いを残しながら一メートル、また一メートルと進んで行く。 臆病か、用心深いのか、とにかく俊足の、誇りと大志に満ち溢れていた私には、こんな惨めな体験は地獄でしかなかった。 かえってあの庭の方が平和で良かったのかもしれない。 夕方。陽が赤々と縞模様を照らす。一つ溜息を吐いた。 ――臭いを辿って帰ろう。 所々に擦り付けた自分の臭いを嗅ぎながら進んで行くと、ある所で突然臭いが消えた。 おかしいな、と思っていると、突然バケツをひっくり返したような大雨が降り出した。 ――雨宿りできる所はっと。 振り返れば公園の隅に、泥まみれの、薄汚いダンボールが幾つも重なり合っている。 私は急いで駆け寄り、中に入った。今はとにかく雨を凌げればそれでいい。 全く、情けないものだ。血統書付きの由緒正しい猫が、体中泥塗れ、毛並みはグチャグチャで見られたものじゃない。これでは完全に野良である。 まァ、雨が止んだら家に帰って、人間様の風呂にでも入れてもらおう。 しかし、外界では、総ては思い通りには進まない。 ――自分と違う臭いがする。 さっきまでは焦りと走ったことによる疲労で気付かなかったが、明らかにこれは誰か他の猫の小屋だ。 まずい事になった。詳しくは知らないが、外界では猫同士の縄張りが強いらしい。私は生まれて今まで、喧嘩、狩りをしたことが無い。 代わりに他の猫の臭いと恐怖というものを知った。 途端に体が震えてしまい、一目散に我が家へと走り出した。私は生まれながらの俊足を生かし、雨に打たれ、泥に塗れて逃げ惑った。 何度も何度も道に迷い、到着したのが朝の二時だった。 私はずぶ濡れの身体をブルブルッと震わせ、凍てつく空気を堪えながらふらふらと小屋に入って行った。怖かった。 何者かが臭いを辿り、追いかけてくるのが怖かった。そのまま丸くなり、少しずつ明けてゆく空を見続けていた。 外界は想像していたより恐ろしかった。私の人間慣れした、失われた野生本能は、プライドだけは高い高級猫をじわじわと蝕み、只の肉塊に変えてしまった。 いや、もともと家猫の間に生まれた猫である、野生本能等は元来無いものなのかもしれない。 何であれ、私は外界で生き抜く為の根本的な何かが足りていなかった。 それは先に述べた先天的な野生本能かもしれないし、外界を甘く見ていた自分の迂闊な失敗をカバーする理性であったのかもしれない。 結局のところ、私はこの家にそれからもお暇することにした。 外界でプライドを捨て、死という危険の真っ只中に放り込まれ、その代償としての自由を求めるより、 狭い安全な世界に君臨し、自分という帝王を維持し続ける方が割に合っているし、その方が自分というプライドをかなぐり捨てなくてもよいからである。 そうして数年が経ったが、次第に飼い主の、自分への愛情が薄れていく様を目の当たりにし、生きるということに疑問が浮かび上がった。 これは今に始まったことではないのだが、果たして数年前のあの日、この家に留まった決断は、正しかったのだろうか、ということである。 自分は、あの時の決断のお陰で、確かに今も誇りに満ち溢れた猫であるし、この狭い世界では天下無双の帝王である。 しかし今の私は生きている死猫である。誇りも真の誇りと呼ぶに相応しくない。 以前の誇りと大志に満ちた高級猫は、あの日以来路傍の石、黴の生えた木像同然である。 そう、たとえどんな危険を冒したとしても、外界で雨に打たれ、傷つき、精一杯生きる喜び、苦しみを知り、 ボロボロになりながらも真の誇りを見つけ出した猫こそ、死して猶生き続ける勇敢な猫なのであり、そうした生き方こそが最高の幸せなのである。 木蓮が輝いている。しかし私は濡れていない。木蓮は生き、私は死んでいる。 蝶も雨の終わりを知り、びしょ濡れの羽を凍てつく空に精一杯羽ばたかせている。私は濡れない身体を小屋へと押し込み、年老いた身体を労わり、暖を採る。 それなのだ。私と、私を囲む総ての、真の誇りと絶対を持った、偉大なる生き物たちとの違いは。 悲しいかな、しかしそれを知り、決断するには歳をとりすぎた。 今は只、衰弱し、老いてゆく自分を励まし、飼い主からの寵愛を請い、二番目の幸せを願うばかりである。 しかし、天は生きる資格のない者を排除し、世の均衡を図るのである。 あの時、私を殺さず家に帰したのは、決断する猶予を与えてくれたのだ。だが私は誤った決断をしてしまった。 家に留まり、生を捨て、恥を取り、代償の安と仮初の幸を選んでしまった。 それに気付いた時には、私の死期は目前に迫っているのであった。 虚ろに歩き出し、車道に散歩しに出かけた時のほんの一瞬。 星の瞬きよりも、若い日の俊足だった私の足よりも、軽率だったあの日の決断よりも、 そいつ――鉄の塊は速く突っ込んで来て、生きる価値の無いこの老いぼれを、 生きた死猫を、誇りの無い肉塊を、無残にも轢き潰して行った。 今となっては、近頃愛してくれなくなっていた飼い主も、よく考え込んでしまうようになった自分も、 総てのことがこの事故を暗示していたように思えるし、 最近過去をよく思い出すようになったのは、言うまでも無く走馬灯であったのだろう。 兎に角、私は断末魔を上げることなく、幾つかの肉塊と骨、血、飛び出た眼球を残し、ようやく真の死を手に入れることが出来た。