<覗く女> それは突然の思いつきであった。湧いて出てくるイメージが火を噴き、山となり、川となり、虹となった。 思いつきや閃きというのは本当に不可解なものである。 こちらから手を差し伸べても何の反応も示さないのに、寝起きや昼飯、ましてランニングなど一見何の関係もない行動の最中、突然鎌首をもたげる。 そして閃きとそれが起こった状況との関係が疎遠であればあるほど、その閃きの奇抜さ、奇怪さ、素晴らしさは向上する。 今回もそうだった。男は何気なく銭湯に行っていた。それはいつも通りのことだった。 頭を丹念に洗ってフケを落とし、手拭いに石鹸を染み込ませ、腹をゆっくりさすっていたその時、突然思いついたのだ。 思いつこうと思って思いついたのではない。何か閃きを求めて風呂に入ったのでもない。 いつも通りの、日常の流れの中で、そいつは男に襲い掛かった。 全くこの閃きは男の神経を奮い立たせた。世界に存在するあらゆる電波が男の四肢を駆け抜け、心の臓を貫いたようであった。 何せ酷すぎる。複雑すぎる。 普段は思いつけば直ぐにでも行動に移す性格の持ち主である男にも、この提案はしばし受け止めがたいものがあった。 だから一時間も風呂で悩んでいたのである。 意を決した男は風呂から出て、身体の水分を拭き取り、髪を乾かし、冬の空気が火照った身体を慰めつつあるのを感じながら、拉げた長屋の二階、自らの部屋に戻った。 すると今度は心臓が暴れだす。愈々実行に移すのだと思うと、妙な緊張と罪悪感に囚われる。 男はじっと南の壁を見つめた。白くて冷たい。その先には女がいる。女子大学生の女だ。今、彼女は何をしているのだろう。 きっと、そのしなやかな肉体を床に打ち捨て、あられもない格好でテレビでも見ているに違いない。 女の胸は豊満だ。軟らかく優しく、左右に開いた谷間。ツンと上を向いた乳首。それが階段なんぞを降りている時、ふくよかに揺れるのだ。 朝、それを玄関の覗き窓から密かに覗いて、歪み切った性欲を満たすのが男の日課でもあった。 女は何故かいつもブラジャーをつけていない。そのくせ冬でも真っ白なブラウスで玄関の前を通る。 乳房が大袈裟に揺れ、乳首がくっきりと浮き出し、それが男の指を果てしなく煽る。 情熱に駆られ、最大にまで熱せられた指は、その欲情の最終を求める。 しかし男と男の指が一番燃え上がるのは、玄関前を通り抜けた女を反対側の窓からもう一度覗いた時――今度はコートを羽織っているのを見た時だった。 それが意味するのが例え男の考えているような不埒なものでないにせよ、その光景は指の熱液を爆発させるのに容易かった。 そんな女がいる壁を、男はじっと見つめていた。 さてその思いつきというのが、壁に穴を開けてしまうというものである。覗き穴では決してない。 男はこんな奇妙な閃きを持つ人間であるが、そこまで堕ち切った訳ではない。覗くのは――堕ちるのは、玄関の覗き窓で十分だ。 だからこそ、この壁穴の残酷さが際立つのだ。知っていながら敢えて触れない。これは男だけの問題ではない。 穴を開けられた側、つまり女にも同じことが言えるのだ。覗かれているかも知れない、だけど見て見ぬ振りをする。敢えて知らん顔をする。 お互いがそんな状況下に置かれた時、玄関の覗き窓は異常なほど意味を持ち始める。そう、全ては日常の強調。日常の補完。 男が毎朝爆発させる指をより熱くさせる為の仕掛けなのだ。 翌朝、いつものように女の玄関が開く音がする。それが目覚ましとなる。慌てて覗き窓を覗き込み、下着に手を突っ込む。 もうすでに興奮し始めた指を握り締めて準備する。 女はいつも通りブラジャーなしのブラウスだ。乳房が揺れる。乳首が浮かぶ。 彼の下着の中では、もうすでにはち切れんばかりの興奮が起こっていた。 女が通り過ぎた。急いで窓から女を見る。真っ黒なコートを羽織り、バイクにまたがった。その瞬間、男の指が火を噴いた。 それからは男の日課から逸れる。まず友人の家を訪ね、ドリルを借りる。電動で、勿論静かなもの。 再び部屋へ戻り、一番目に付きやすい位置、つまり女の目線の辺りにドリルを入れる。 ガリガリと湿った煎餅をかじる音を立てながら、ドリルが食い込む。もう男の興奮は納まらない。 しかし割と簡単に穴が開いた為、興奮は幾分か冷めてしまった。もっと困難な方が、男の熱は高まったのに。 覗きたい一心を抑えて、ドリルを返却、部屋で女の帰りを待つ。覗きたい。 女を見て、その部屋を覗いてみたいというのは異常なことだろうか。 少なくとも、部屋を覗いたからといって興奮する訳でもなく、感動する訳でもない。では何故人間は覗きたがるのだろう。 スカートの中も、はだけた谷間も、見えるまでの葛藤が良い。本能的な性欲とは一線を画した、心地よい興奮がある。 しかし見えてしまうとそれは単なる性欲に萎えてしまう。見ることが目的ではなく、見えないものを見ようとしている行為に興奮がある。 それは唯の性欲なんかではない。本能などではない。もっと理知的な、論理的な、人間の知性が生んだ歪んだ愛だ。 そしてその方が、男の指は硬くなる。 夜。女が帰宅した。鞄を置く音。服を脱ぐ音。ハンガーにかける音。全ての音がいつもより大きく聞こえる。 その壁一枚を隔てた向こうに、男が夢見ていた楽園があり、そして壁には穴がある。覗けばそこが桃源郷なのだ。しかし男は覗かない。 覗いてしまっては萎えてしまう。それにこの穴は、あくまで以前から存在しており、男が開けたものではない、という意味を与えなければならない。 その内、女の足音がこちらへ向かった。興奮。そして突然、ハタと足音が止まり、口と鼻から、瞬時に同時に息を吸い込んだ音が聞こえた。 目を見開いているに違いない。ここが正念場だ。訴えられるか、無視するか…… 女は結局、無視することにしたらしい。静かに足音が向こうに消え、やがてテレビの音が聞こえ始めた。 助かった。そして段々と興奮してきた。この事実は、少なくとも女が覗かれることを黙認したという意味を持っている。 嗚呼、男の指は、今朝爆発したにも関わらず、大きく赤黒く硬直し始めた。もう我慢ならない。 男は女子高生の裸体が幾つも載っている雑誌を取り出し、食い入るように見つめながら熱を放出した。 その朝。いつも通り男は覗き窓から女を見て、放出した。その晩、女の部屋からテレビの音が聞こえ、またあの興奮がやってきて、放出した。 どうやら「テレビの音=放出」は一種の条件反射になってしまったらしい。その次の朝、また放出。その晩も、また放出。 土日は女が家に居るので、晩だけの放出。しかし男にとっては丁度良い中休みであった。 それから三週間くらいそんな生活が続き、男は愈々疲れてきた。男の精力も底なしではない。それでも放出し続けなければならなかった。 放出を止めることは、男の、女への飽きを示している。だから止める訳にはいかなかった。毎日毎日、放出は行われた。 そしてある晩、男は日課となってしまった放出を終えたあと、何気なく壁の覗き穴を見た。そして凍りついた。 男が覗いた瞬間、その穴から光がサッと差し込んだのだ。それが意味することを、男は瞬時に悟った。 しかし男には最早放出を止める権利はない。それは女への侮辱を意味する。永遠に放出を続けなければならない。 それから一週間。彼の指は遂に起こらなくなってしまった。 どれだけ鼓舞しても、女子高生の裸体を見ても、コートの女を見ても、テレビの音を聞いても、二度と起こらなかった。 それでも覗き穴を見ると、サッと光が差し込む。彼は泣きそうになりながら、その萎びた指をこすり続ける。 やがて彼は狂った。裸のまま女の部屋へ押し入り、叫ぶ女を殴って黙らせ、何度も何度も萎びた指を突っ込んだ。 しかし奮い立つこともなければ放出もない。最早差し込むこと自体が困難となってしまった。それでも彼は、いつまでも女に差し込んだ。 やがて彼は苛立ちを抑え切れなくなって、女を何度も何度も殴り、遂に殺した。 彼は死体を部屋に運び、動かぬ裸体を眺めてみた。すると彼の指はかつてないほどの異常な興奮を見せ、いきり立った。 彼はもう一度、差し込んでみた。矢継ぎ早に死体の中へ放出した。 『強姦殺人犯を逮捕』――二月三日 市内の長屋に住む男が隣室の女子大生を強姦し殺害した疑いで、今日、逮捕された。 男は「全ては合意の上だった。暴れたから殺した」と供述しているが、殺した後も性交を続けている等あまりに不可解な点が多い為、 近く精神科の診断を受ける予定。 『強姦殺人犯、無罪』――三月二五日 市内に住む男が隣人の女子大生を強姦・殺害した事件で、精神科医の診断の結果、男は精神に異常な状態が見られるとし、 責任能力の皆無が決定され無罪となった。無罪確定の瞬間、男は「早く死にたい。何故殺してくれないんだ」と叫んだという。