<千枚の札>

 妥協

大きな赤い鉄橋を渡り、くすんだ町並みが視界の隅に翳めたかと思うと、自分はもうすでに白黒の町にいた。

右も左も同じようで違う、一種の幻惑のような印象。勿論、左も右も違うようで同じ。迷ったら抜けることは不可能だと思う。

安全に進まねば……と思った隙に、それ、見ろ、もう迷ったじゃないか。橋はどこへ消えた。町の入り口は?

全てが白黒の為、まあ見当もつかない。結局、曲がり角であっても、ビルであっても、それら全てがまとまり、いわゆる一つの町を形成しているのだ。

だから、どこにいたって町の一部なんだ、同じなんだとは思ったが、まさかこんなにも螺旋が続いていたなんて……

不意に、犬の遠吠えが聴こえた。こんな白黒の町に住んでいる犬なんて、そりゃあ現実感がないものなんだろうな。

人間だって同じだ。夢も希望も、全ては白と黒とで理解できる。というより、それしかない。一体どこに目をつければいいんだろう。

光か、闇か。それだけで決まる人生。人の、自然の理。自分は黒の方だと思う。一度堕ちた人間は、どれだけ這い上がっても黒だった。

「それでいいじゃないか」

犬は言う。

「それでいいじゃないか。あんたはあんたなんだし。俺たち犬にとっちゃあそれだけで十分羨ましいよ。

なんたって人間から見りゃあ、犬なんてどんな犬でも結局犬だからな。特に俺なんかは白黒なんでな」

「白黒で何が悪い。色があることがいいこととは限らない。第一、白と黒で見える色彩もある」

「何?それ。聞いたことがないや」

「何だっけ、なんとか効果……」

「ま、仮にそれがあったとして、俺にはなんの価値も示さないね。犬は犬さ。頭が西向きゃ尾は東なんだ」

「……聞いたことがあるな」

「北を向きゃ当然南なんだ」

「他人事とは思えない」

「明日に向きゃ昨日に向いてるんだな、これが」

「まてよ、明日は娘の誕生パーティが……」

「つまり人生ってのは前を向きながら、一方では常に後ろを見てるんだな。覚えておけよ」


町を一巡りして、今度は西瓜を見つけた。白黒の西瓜なんて、そりゃあもう普通の西瓜と変わったもんじゃない。

元々が黒と緑なんだから、白黒になったところで大して変わりはないのだ。単純はいいことだ。

「単純?それでいいじゃないか」

「また君か」

「邪魔だったかい?それともその西瓜が単純なのかい?」

「何を訳の判らんことを……」

「そうかい。ところで娘は白か?黒か?」

「……」

「答えなよ」

「……白……であってほしい」

「じゃあ黒だな。ヒャハハハハ」

犬は馬鹿笑いした。自分はこの瞬間をとてもいとおしく感じた。

「じゃあ君は黒かい?白かい?」

「あんた、娘の元に行かなくてもいいのかい?」

「どういう意味だ」

「いや、あんたの娘は黒だってことさ」

「頭が西向きゃ……」

「尾は昨日。早く娘のとこに行ってやんなよ」

「……そうするよ。ありがとう」

急ぎ足は急に忍び足に変わった。今日が昨日に追いついた時、娘はもう死んでいた。


 塩ヶ崎

ここは世界でも有数の塩の名産地で、全世界の塩の三分の二がここで取れる。

しかし雨の日は収穫がゼロになるので、残りの三分の一は別のところから収穫し、確保している。

だがしかし、どこが問題なのかというと、その別の何処かが塩ヶ崎であるという可能性を否めないという点だ。

お陰で塩はなくならないし、困らない。塩の価値が下がる一方、近日では砂糖の高騰が話題になっていた。

自分はというと、娘が死んでから一向に気が晴れなかった。多分、塩のせいもあるかもしれない。

「それでいいじゃないか」

「君は何故娘の死を知り得たんだい」

「おい、人の質問に答えろよ」

「君は犬じゃないか」

「何故あんたは塩ヶ崎なんかに来たんだ?」

「さあ……でも塩と娘は通じるところがある」

「塩も娘も白いってことか。洒落のつもりかい?あんたらしくもない。娘は黒だって言ったじゃないか」

「君は塩をそんな風にしか見れないんだね」

「じゃああんたにとっての塩ってなんだい」

「死を負うってことかな」

「ははぁ……結局最後まで洒落なんだな。娘が可哀そうだ」

塩ヶ崎は果てることなく続いた。一面に輝く塩。ところどころで塩を取る女が見える。はて、今は雨が降っているが……

第一、これくらいの人材で世界の三分の二がまかなえるはずがない。

これは推測にすぎないが、塩ヶ崎は自らが塩を収穫し、貿易しているのだろう。何故か。

それは白黒の世界で存在している限り、たとえ塩ヶ崎であっても黒い部分が存在するから。

「塩って面白いよな。溜めれば見返りも付くぜ」

「塩を年金に換えるのか。いい案かもしれない」

「どうでもいいが、明日や昨日ばかり見てたんじゃだめだぜ」

「知ったかぶりはよしてくれ」

「おいおい、笑わせるなよ。わざわざあんたに忠告してやってんだ」

「それが余計なお世話なんだ」

「じゃあ知らないぞ。灯台下暗しって知ってるかい?」

あまり意識していなかったが、足元はサラサラと崩れだしていた。塩って人殺しもするんだな。自分は塩の中に取り込まれ、遠くで犬の遠吠えが聴こえた。

夜の次が昼の場合、その朝の次の次、今度は母親が死んでいた。


 浄化

「いい加減にしろ、カスめ」

父から再三聞いた言葉。蠢く骸骨が蟻走感を演出。噴火した五色の太陽は、夕暮れ時に一番黄昏る。

カスがなんだ。人間これ皆全てカスだ。

デブ?いいじゃないか、カスだ。

眼鏡?いいじゃないか、カスだ。

運動オンチ?いいじゃないか、カスだ。

学力最低?いいじゃないか、カスだ。

馬鹿?いいじゃないか、カスだ。

カス?いいじゃないか、カスだ。

「カスめ、口癖まで真似やがった」

「カスで結構。君は君で、君というカスだ」

「言ってくれるね。まあそうひねくれるな」

「君と僕とが入れ替わる時が来た様だ」

「カスとカスがかい?笑わせるなよ」

「……」

「あんたと一緒にしないでくれ。俺は殺人なんてしていない」

「……どういう意味だ」

「あんたがカスだってことさ。ヒャハハハハ」

娘は死んだ。母も死んだ。残るものは妻だ。構わない。死んでしまえ。カスにはカスなりの意見があるんだ。

ところで、自分はこの世を浄化せねばならない。

「所詮、血縁があるかないかってことなんだな」

「いいじゃないか、それで」

「あんたは血縁がなけりゃあ乞食と一緒だって言うのかい?」

「乞食。いいね、その言葉」

「どうでもいいや。ところで、白黒の宿題はどうなったんだい?」

「塩ヶ崎で出したさ」

そして人の遠吠えが聴こえた。犬は人へ、人は犬へ。螺旋は続く。

しかし夜が明ける頃、自分の力だけでは妻を殺せなかった。


 壁、それから水槽

自分は、部屋にある水槽を思い出した。それが丁度昼頃であったから、妻が死んだのは夕方だった。

水槽は一種の世界だ。芸術的独裁者だ。水槽には神がある。で、壁がある。

壁は個々の分離に役立つ。なのに、我々は水槽の中で繁栄し、個々を集団に変えた。壁の矛盾に、胸が痛む。

死のう。うん、それが一番早い結論だ。証拠だってある。アル中は鬱に最も近い。死ね、死ねと聞こえる。

神か?壁か?それとも水槽自体の悲鳴なのか?ゆゆしき事態に身は縮む。

話が脱線しすぎた。壁が近い。おっと、「死が近い」の間違いか。

ともかく、太陽が我々の頭上で輝く可能性を秘めている限り、壁の矛盾は時を超え、世界を股にかけ、水槽を更に閉じ込める。

動き始めた歯車は、壁でしか止められない。最も、それはあくまで一時的なものであって、恒久的な対策とは言い難い。

だとすると、世界とは一体なんなのか。例えば点の世界があったと仮定する。

いや、点の世界は恐らく存在するだろう。我々は常に我々の常識を他の常識として認識する。しかしまあ、それは知識人であれば仕方のないことだろう。

点の世界とは一次元。自分もそうだが、点から線を描くという発想は生まれない。

点の連続としての線なら認められるが、それは三次元で生きている我々の見解。

つまり一次元で生きる限り、それは二次元の実装を見破れない。二次元では三次元。三次元では四次元が見破れない。

立体で無限大を描くという発想は生まれない。

そしてそれは何故解決されないのか。言うまでもない。壁と水槽との間にある矛盾がそうさせる。

白黒の世界とは、これら全てが点で描かれた世界。

ああ、もう朝か。朝まで白い。夜は黒い。昼は……壁か?


 フナムシ

これ幸いに、これ以上無価値で薄気味悪い者はいない。

「君のことさ」


 蒸気

すると待てよ。自分は鬱か?


 河童御池

鬱に悩む。何せ実感がない。

「ユーモアだね」

「うん。まあそんなところさ」

塩ヶ崎の失敗を無駄にせぬ為、ここはひとまず言う事に反対しない。順ずることが反抗への第一歩。

と、早速後輩に慕われている自分を思い出す。自分ができぬことを人に強要するもんじゃないな。

「しかしあんた、なかなか面白いね。作家にでもなったら?」

「作家か。自虐的なものは嫌いさ」

「道理で。あんた、十分自虐的だよ。偉大な作家さ」

「しかし酷いもんだな……見ろよ、赤信号を無視して渡っている」

「あんたも同類項。系統で言うとヒト科」

「一緒にしないでくれ。僕は自殺なんか考えない」

「言うね。殺人犯め」

「いい加減にしろ、カ……」

「カスめ、か?ヒャハハハ」

「君って奴は、親父そっくりだよ」

「そうだろう?なんたってあんたの親父なんだから」

自分はそうやって死んだ親父との再会を果たした。

しかしこうなってくると、夢も見れなくなる。月が怖い。


それから二十五時間と三十八日が過ぎた。以前は恐怖した月さえ隠す竹藪。埒のあかない輪廻の笹。蛍か。

「竹薮に、鬼火と見たり、蛍火」

「やめてくれないか」

その藪を抜けたところに、大きな池があった。いや、小さな、といった方が割に合うかもしれない。

と、早速足をつけてみた。静かな騒音は次第に静まり、今度は騒がしい静寂が訪れた。

池はというと、非常に静まり返っており、老婆が一人で山奥にこっそりとなんとか生きのびている、といった印象を与える。

雰囲気が大事。まずは名をつけよう。

一瞬のためらいもなく、平素から優柔不断な友が言う。

「河童御池。ぴったりじゃないか」

で、自分はそう名付けることにした。

友はどうやら熱があるみたいだ。あとでかかりつけの医者に診てもらおう。

「すみません、お疲れの所……」

「え?君は誰?」

「河童です。この夏ここで祭りをするんですが、あなたがいると非常に邪魔なんですよ。是非我々の言うことを聞いていただきたいのですが」

「なんでもどうぞ。ただし聞くだけ」

「まあそういうなよ」

「あなたもです」

「え?もしかして自分は他人?」

「いいえ、滅相もない。私は河童」

「しかし自分が自分でないという点も顧みないといけない」

「ですね。じゃあ場所を改めよう」

で、我々は少し先に行ったところの、小高い丘に登った。河童御池が良く見える。

さて、こうして上から眺めてみると、確かに河童御池は明るかった。なんだ、心配するほどのことではなかったのか。

「ほら、あれが祭りじゃないか?」

「本当だ。河童たちが集まってく」

そこまで言い放った瞬間、最初の河童が自分を見咎めた。悪寒。

「いけない人ですね。ここにいられると邪魔になるっていったでしょう?」

「え?池からは離れたつもりでしたが……」

しかしここから見上げると、丘は確かにまだまだ続いていた。

「もっと上です。そう、もっともっと上……」

結局登らざるを得なかった。

「もっともっと……」

「天に届くまで……」

「止まるな!まだまだ上ですよ……」

なるほど、河童というものが理解できた。脳裏はすでに河童だった。足がむくんでくる。限界だ。一休みくらいさせてくれ……

「休む?何を馬鹿げたことを……」

「河童御池はまだまだ続きますよ……」

「だって、河童御池は僕がつけた名前ですよ?」

「じゃあ休んでみなさい。あなたの泣き顔も見てみたい」

「わかったよ、登るよ」

しかしいつまで続くのだろう。いい加減終局が見えてもいい頃合だ。

振り返ってみて、驚いた。まだ河童御池は目前にあった。せいぜい、二〇メートル。甘く見て三〇メートル。

河童の言うことも至極最もだった。


 天の門番

「すみません、通してください」

「だから、無理なのです。あなたは死人でもないのでしょう?」

「アル中なんです」

「嘘はいけない。あなたたち下界人の個人データは全て網羅してありますから、私はあなたの全てを知っているのです」

「全て?たとえば?」

「あなたの生死、職種、社会的立場、能力、思想、宗派。それから愛人、性病、孤独、自己嫌悪、自虐的思考……」

「ちょっと待って。僕は自虐的なんかじゃない」

「だから嘘はいけない。あなた、作家でしょう?」

「犬とか河童とかが語りかけるんだ」

「それですよ、問題は」

「ん?そういえば、あなたも語りかけてますよね?現実には考えられない者が語る……もしかしてあなたも……」

「だったらどうだって言うんです?」

「この場で自殺してみせます」

「だめだといったら?」

「ダメ?そんなこと、自分の身に何かが起きる時だけに使う言葉だ。僕が死ぬことにあなたが関与するはずがない。所詮、あなたは僕の中の僕なんだ」

「じゃあ自殺してみなさい」

「……」

「どうしました。構いませんよ、私は」

「じゃあ、何故さっきはダメと言ったんですか?」

「誰もダメとは言ってませんよ。私は、もしダメだと言ったらどうします?と聞いただけです」

「……それでも登り詰めなければいけないんだ」

「そうそう、二日ほど前、あなたの娘が来ましたよ」

「二日?おかしいな」

『それでいいじゃないか』

「別に構わないんですけどね。死んだ人は帰ってこない」

「あなたが死ねばいいんですよ。そうすればこの門も開きますし、何よりあなたの娘とも再会できる」

「だが……やはり躊躇してしまうね」

「そんなものでしょう。やめますか?」

「いや……三日。三日でいい。少し考える時間を与えてくれ」

「構いませんよ、三日で生死を見定められるのなら……」


 結論

しかし、それももう済んだ事。

塩崎誠は殺人と自殺未遂の罪で逮捕されたが、精神鑑定の結果ブタ箱には入らずに済んだ。

結局この年の自殺者は十万人を超えた。