<空と人と>

先日、自宅付近の通学路でバスと乗用車が正面衝突する大事故があった。死亡一名、重傷三名、十人以上が軽傷を負った。

毎朝通学に利用するバスだったので、ニュースを聞いた時は冷や汗が出た。死を目前に迎えた、そんな冷たい気分がした。

しかしその日はたまたま遅刻して乗り合わせておらず、自分だけは事故を免れることが出来た。


死亡した女の子は自分の一つ年下で、その日はたまたまそのバスに乗り合わせたそうだ。

偶然死を免れた、死ぬはずだった男。そして偶然死んでしまった、死ぬべきでない女の子。

二人は死を交換し、一方は生き、他方は死んでしまった。彼女が果てたのは天の本意なのだろうか。

それとも、神さえも操ることの出来なかった、自分の悪運のせいだろうか。

悲しいかな、顔も見たことのない女の子に、自分は異常な親近感を持ってしまった。

会いたいという心が、自分を深い悲しみの淵にいざなった。もう絶対に会えぬというのに。


学校にいる間も、一向に気分が晴れなかった。空はあくまで高い。

広大な大空に映る自分が、とても小さく頼り無いものに見えた。彼女のこれからの人生は、まるで自分が奪ったようにも思えて仕方が無い。

いっそ命を交換してあげることが出来たのなら……

自分が自分である為には、自分以外の誰かを利用しなければならない。誰かを失うことで、自分が上位に立てるのだから。

そうして人間はここまで大きく育った人種なのだから。それは生物の本能とも言える。

冗談じゃない。

誰かの死を得ることで生き続けることの出来る痛み。振り返れば死が微笑んで背中を押してくれる実感。そんなものは味わいたくない。

痛みなく死ねたのなら。そう考えると、彼女のことが少しうらやましくなる。

こんなことを考える自分は、恐らく世界で最もおろかな生き物だろう。

なぜなら、彼女と自分とは一切の交流もなかったし、事故の原因は乗用車の飲酒運転なのだ。自分に責任はないはず。

まして自分が生を嘆けば、遺族のどんな怒りに触れようか。

せめてもの罪滅ぼしの為、帰り道に事故現場に寄ることにした。


長い坂道を下るバス内で、徐々に近づいてくる死の現場を直視する自分。やがてバスはおもむろに停車する。

そこは事故の現場付近のバス停。自分は重い腰を上げ、暗い面持ちでバスを降りた。

到底事故が起こりそうにない緩やかなカーブに、無残にもガラスの破片が散らばっていた。自分以外誰もいなかった。

死んだ事など掻き消すように、吹きすさぶ風。還ることのない涼しいカーブの果てには、沢山の花束が供えてあった。

――この花束が全て自分に向けられていたとしても、決して不思議ではない。むしろ今ここに立っている自分こそが、不思議なのだ。

そう思えば、今の自分が虚構に見えてくる。

――もしかすると、この身体はあの女の子の物なのかもしれない。自分は死んでしまった自分に気付かず、身体を奪っているのかもしれない。

花束は、優しく晴天を仰いでいた。

その時、供え物の中に青い衣服を見つけた。

『天国で整備士になる時に使ってください』

自分は涙が落ちるのを確認した。死体のあったであろう場所に落ちるのを、確認した。自分は整備士など目指したことがない。

死んだのは自分ではない――


約三十分、手を合わせて現場を後にした。しかし手を合わせている間、何を想えばいいのかは分からなかった。

ありがとうと言えば失礼だし、残念だと言えば生き残ったことに疑問を持ってしまう。

白紙の脳裏に事故の瞬間が、まるで見てきたかのように思い浮かぶ。ああでもない、こうでもない、彼女はこうして死んだのだなどと、不謹慎なことばかりの三十分だった。

しかしそれでいいのだとも思った。ありがたいことは振り向けば失ってしまい、遺憾だけが心を縛るのだ。

その呪縛こそが、迷いであり、霊なのだろう。

こうして三十分祈ったお陰で、私は早足に家路へと向かうことが出来てしまった。

バスには乗らなかった。それがか細い命を奪ったものに対するささやかな反抗だった。

そして労働を背負うことが生き残った自分への叱責だった。

しかし明日になれば、自分はそのバスを再び利用し、登校するのだろう。

清々しい晴天の中、私は清らかになりつつある利己心の不謹慎さを、人間の汚らしさを、嫌というほど知った。

空はあくまで澄んでいた。