<燕>

 一

乾燥した空気が生ぬるい湿気を含み始め、そろそろと春の勢いが頭角を現し始めました。

欠けていた何かを取り戻そうと、芽吹き始めるであろう草花達がこのアスファルトを突き破る瞬間を、今年こそ捉えてみたいところです。

さて、先月より私は自宅にて怪我の養生を行っておりました。怪我というのは、先月の大会で患った右腕の骨折です。

というのも、私は本職の作家をする傍ら、趣味の範囲で剣道をしておりました。こんな言い方をすると誤解されそうですが、私は案外強かったのです。

しかし、その決勝戦で対戦相手に思いっきり吹き飛ばされ、頭から地面に激突したのです。

後頭部を激しく打ちつけ、その時ついでに腕も奇妙な方向に捻じ曲がりました。

全治一四ヶ月と宣告され、仕事にも大きな支障が出るとのことでしたが、最近は大分回復しており、この調子なら、早いうちにまた職場復帰できそうです。

先々月に書き上げた自伝小説は案外好評で、映画化の話も出ています。

しかし、自分の記録が映画化され、見知らぬ誰かに演じられるのはやはり恥ずかしいものです。

今度映画化の機会があれば、是非自分で演じてみたいですね。


 二

さて、特に何もすることがなかった私は、詩でも書こうかな、と机に向かいました。

でも、一旦休息という甘い蜜の味を覚えた右腕は、最早使い物になりませんでした。いくら制しても、休ませろ、と訴え出るのです。

しかもこの右腕はえらく乱暴者で、私の脳をも脅迫するのです。お陰で私の作家としての生活は、ひどく扱いづらいものとなっていました。

こうなったら、もう私は笑うしかありません。しかし、突然大声で笑い出すわけにはいきません。

妻に痴呆症だと誤解され、再び病院に舞い戻らなくてはならなくなります。

だから口元のみを、多少引きつった感じに歪め、ほくそえみました。これで私の勝ちです。

そうして机に向かったきり、一〇分程経過しました。私はふと外出を決意しました。

すぐに準備に取り掛かり、特に何も準備する必要がないことに気付き、恥じらいながら準備を終えました。

妻に大声で外出を告げ、私はいきおいよく門を開きました。しかし妻からの返事はありませんでした。聞こえなかったのでしょうか。

まさか!私は少し不安になりましたが、あえて無視することにしました。

それから左右を見回し、安全を十二分に確認してから後、右に歩を進めました。無論、右側通行です。

前から来る人にも、後ろから来る人にも、絶対に右壁を譲りません。

もし相手に右壁を与え、相手が誤って私の右腕にぶつかろうものなら、私は再び入院です。

それだけは絶対に御免ですね。

そのまままっすぐ行けば、右手に小さな公園があります。私はそこに入り、隅のベンチに腰掛けました。

冷たいプラスチックが、私の骨身を刺激します。ややあって、服と身体の間を冷たい風が吹き込みました。私は思わず立ち上がり、公園を飛び出しました。

子供達は私を俗物視しました。私は少し腹が立ちましたが、子供のやることなので黙っておきました。

また同じ道を、右壁に沿って突き進みます。あてのない旅、それもごく限られた範囲内でのサバイバルです。

失敗の確率を極限まで薄めた綱渡りです。

無論、そのすぐ下にはふかふかのマットも用意されています。

ふと、人間の自由について気が付きました。

総ての危険を排除され、安全だと言い張る世界で、それでもおどおどしている人間に、本当の自由なんてつかめるのでしょうか。

おそらく、不可能でしょう。

今の安全な綱渡りが、それをありありと証明してくれている限り、自由という言葉はごく簡単に、普遍的に使用されていくのでしょう。

そんなことを考えていると、今右腕の危険に気を使い、安全なはずの一般道をびくびくしながら歩いている自分に嫌気が差しました。

いっそ、この強情で傲慢な右腕を、もうこれ以上もなく、そう、これ以上もないくらいに滅茶苦茶に破壊してやろうかとも思われます。

しかし、いざ決断の時になると、今まで自分に対して牙を向けていた右腕が、突然哀愁の声で哀しげに唄い始めるのです。

それは私の決断を挫く一番の方法なのでしょう、私は一度も果断を下したことがありません。

結局、我が身可愛さに五体満足な自分を捨てきれず、私はより一層落ちこぼれて挫けます。


 三

そんなことばかり考えるのも癪なので、ひとまずタバコ屋の自販機でコーヒーを買います。

しかし何に動揺したのか、それとも再び右腕の逆襲なのか、間違って冷たい無糖を選んでしまいました。

やはり慣れないことをするのはいけません。何を隠そう、私はカフェオレさえ苦すぎて飲み辛いのです。

しかし未開封のまま捨てるのも可哀想なので、無理矢理妻へのプレゼントに変えました。性分なのか、そういった贈り物は案外多い。

以前、私は間違って買ってしまった、通販の安物ネックレスを誕生日プレゼントとして妻に贈りました。妻は激しく喜びました。

しかし、そのネックレスをさも嬉しそうに装飾した日には、終日羞恥と後悔に苛まれます。

まぁ、ネックレスと違って今回は飲めばなくなるので、よしとします。

私はコーヒーをズボンの大きなポケットに突っ込み、改めてブルルッと震えました。

コーヒーの冷たさがズボンの薄い裏地を突き抜けて、左ひざに襲い掛かったのです。

先頃は右腕でしたが、今度は左足が咆哮してしまい、しまった、と思いました。

しかし幸いその声を聞きつけた人はいないようで、安堵が私を冷静に戻しました。やはりその仕草を見、人々は眉をしかめました。

どうも作家という奴は、これがどうしてなかなか理屈っぽい。先ほどの贈り物事件についてもそうでしたが、どうもマイナス思考なのです。

もっとポジティブに生きられないものでしょうか。

しかしその答えは作家自身を傷つけ、また否定するものなので、あまり深くは追求しません。

さて、そろそろ引き返しますか。

今来た道を戻るというのは、こいつもやはり厄介者だ。

道っていうものは常にある方向を示唆しているので、うっかりしているとどんどん流されてしまうのです。

丁度、調子に乗って沖まで泳ぎ、帰れなくなった浮き輪小僧のように、助けを求めることも出来ず、ただ浜辺から気付いてもらうしか方法はないのです。

しかしそんな難問を突きつけられても、また厄介です。浜辺からすれば、浮き輪小僧は沖に霞む一次元の物質でしかないのですから。

それでも必死に泳いでいる浮き輪小僧。

かわいそうに、泳げば泳ぐほど、己の体力と勇気と希望を破棄し、絶望と矛盾と後悔を要求することになるのです。

理解できるでしょうか。自らはこれ以上もないスピードで泳いでいるのに対し、浜辺はぐんぐん遠ざかるのです。

これが道の怖さです。怖ろしさです。何食わぬ顔で死刑を宣告する裁判官と、無論相違しない。

ある者は冷徹な決定に、必死になって抵抗しました。浮き輪小僧ですね。

彼は異常なほど残酷な現実を目の当たりにし、産まれて初めて生きることの意義を知ったでしょう。

さて、そんな浮き輪小僧が沢山溢れかえっている今日、面白い人間が誕生しました。

彼は浮き輪小僧のようにはもがきませんでした。むしろ自らが望んだように、微笑みながら流されていくのです。まさしく革命者ですね。

彼はやがて奇跡的にも発見され、一命を取り留めました。その時の彼の言葉といったら!

「あーぁ、また死に底ないが増えた」


 四

さて、家についてからはまた煩悶の時間です。ここに於いて、コーヒーを渡すことがどうしてもためらわれました。

うろうろと庭を歩き回り、なかなか家に入れずにいました。

その時、ふと玄関の屋根にくっついた奇妙な籠を発見しました。燕です。燕が巣を創ったのです。私は鳥が好きです。

何故かと言われると返答に困るが、特に燕なんかは大好きです。巣から雛鳥が顔を出しました。どうやら一人っ子のようです。

ついその可愛らしさに、私はジーっと眺めていました。それから一分もしないうちに親鳥が帰ってきました。ピーピーと餌を強請る雛鳥。

燕というのは、烏などの天敵を避けるために敢えて人間の往来に巣を作るのです。つまり人間には馴れっこなのです。

しかし今回は様子が違いました。親鳥は雛に餌を与える時間をも惜しみ、ふんだんに時間を費やして私を見据えています。

さもあれば飛び掛らんといった表情です。

判っておられるでしょうが、私は鳥の表情なんて分かりませんよ。あくまでそんな感じがした、と述べただけです。

ともかく、これ以上不毛な争いを起こして、いつまでも雛が餌にありつけないのはひどく可哀想に思えました。

仕方ないので、妻に気付かれないように家に入り、妻に気付かれないようにコーヒーを冷蔵庫に入れました。

私の膨大な時間は、その後もいつ果てるとも無く続いていきます。しかし、明日突然消えてしまうかもしれない、恐ろしくいとおしいものでもあります。

だからといって、私は改心したりしません。

時間という概念がどんなものだったにせよ、現在私はとてつもなく暇なのです。ええ、暇です。一分一秒が一時間にも一日にも感じられます。

卓上の葡萄飴を頬張りました。苦々しい口内が甘くとろけることで、私は事の緩和を求めたのです。

案の定、口内は砂糖の人工的な甘みが葡萄の香りをほのかしながら溢れてこぼれました。慌てて妻が私の口を清潔な布巾で拭きました。

拭きながら妻が「いつお出になられたのですか」と言いました。私は「ついさっきだ」と言いました。

すると妻は「では、いつお戻りになられたのですか」と奇妙な質問をしました。私は「つい、さっきだ」と、今度ははっきりと答えました。

そうして燕の話をしよう、と思いました。しかし妻は台所の天婦羅が気にかかるのか、またすぐいなくなりました。

最近は妻がよく話すようになりました。いえ、以前からよく喋る女だったのですが、それ以上に意識しながら話すようになったのです。

丁度、私が骨折して入院した辺りからでしょうか。一度その理由を聞いてみたいものです。

まぁ、話さない妻よりざっくばらんな妻の方が私としては気分が良いので、そのままでもいい気がします。

私の妻は、世界で一番の女です。いえいえ、誤解しないで下さい。何も貴方の恋人や妻を軽視しているわけではありません。

ただ、私にとっては、彼女は最高の妻だと言うのです。

しかし、これもつまるところ惚気でしょうね。つい笑みがこぼれます。さて、燕はどうしたのでしょうか。


 五

のろのろと立ち上がり、ゆっくりと左右を見回し、それからまたのろのろと歩き出します。

最近はこの仕草が多くなりました。やはり腕や頭が不安なので、どうしても増えてしまう。害はないんですけどね。

むしろ、人間誰しもが、今の私のようになればいいとさえ思います。

だって、これだけ用心深い人間が溢れかえれば、この世はなんと安全な世界になることでしょう。

もうロープの下のマットは必要ありません。与えられた死出の旅を、用心深く一歩一歩踏みしめれば、転落することはまずないのです。

私はこれ以上ないくらいに死ねます。そうして、次の新たなロープを買うのです。もうマットは必要ないのです。

しかし、現実と理想は、これがなかなか似つかない。仮に、今ここで綱渡りをしてみる。

走ってみると、無論あっけなく転落死してしまうので、ここは用心深く歩いてみる。

さて一五メートルにも及ぶ永遠の手綱を、貴方は転落することなく渡りきれるでしょうか。

こればっかりは、いかに用心していても、曲芸師でなければ不可能です。では、みんな人生の曲芸師になればどうでしょうか。

しかしこれも卓上の空論であって、いよいよ叶いませんでした。そんなことが出来れば誰も苦労しないのです。

私は難問を噛み潰し、玄関へ出ました。

見上げると、そこに親燕はいませんでした。私はこれを好機とし、脚立を持ってきて雛を見てみようと考えました。

庭の裏側へ回り、そして私の背丈ほどある脚立を立てました。しっかりと足を固定し、まず一歩、踏みしめました。どうやら順調なようです。

これは幸先が良いと、私はもう二歩、踏みしめました。しかし驚いたことに、いないはずの親鳥はいたのです。

私からは樹木の茂みに隠れて見えませんでしたが、向こうは私の行動の一部始終を観察していたようです。

お陰で私は親燕の猛攻に遭い、大きく身を反らせてしまいました。

その瞬間、天地が返り、背に衝撃が走りました。ただの衝撃ではありません。怖ろしく強大な衝撃だったのです。

私は全身不随になりました。体中しびれて起き上がることも出来ませんでした。それでも親燕は私を攻撃し続けます。

『嗚呼、これが親子の絆なんだな』

私は薄れ行く意識の中、そんなことを考えていました。きっと、この絆は誰にも引き裂くことはできないのでしょう。

私は愚かでした。やがて妻が来て、燕を追い払いました。そして私を抱きかかえ、寝室へ運んでくれました。

私は何故あの燕を追い払ったのか、と妻に詰問しました。悪いのは私で、あの燕は子を守るために必死に戦っただけなのです。

だから私は、私がずたずたに引き裂かれようと、燕の好きにさせるつもりでした。

しかしそんな事情を知らない妻は、当然ながら不思議な顔をして、「ああ、きっと衝撃で頭がお悪くなられたのでしょうね」と言いました。

もはや私に返す術はありませんでした。

私はこの後、床に就きながら死を間近に考えました。そしてそれは無駄なことなのだという事実を知りました。

死という物は常に綱の前後左右、もっと言えば上下にまで、隠れることなく潜んでいるのです。

今まで、実際に死のう、と考えたことはありませんでした。

死ぬとどうなるのか、それも知りたいのですが、やはり妻もいる身ですので、そんな贅沢は言っていられないのです。

妻は私の支えなのですから。そう、せめて私はそう思って、今まで頑張ってきましたから。


 六

燕はその後も玄関を往来しておりました。そして私を見かけると、すぐに戦闘体制に入ります。

もうそろそろ夏が来ます。燕の雛も、この間ちらと見たのですが、随分立派になっていました。やがて巣立つのでしょう。

今日、私は隣町まで買出しにでかけます。妻への誕生日プレゼントを買いに行くのです。

一週間ほど前、私から妻に告げたスケジュールですので、今日はきちんと見送られました。

しかしその目的までは告げませんでした。妻の驚く顔が、今からありありと想像できます。

さて、隣町まではずっと歩いていきます。やはり右壁は誰にも譲りません。

春先に訪れた公園を過ぎ、タバコ屋を過ぎ、さらにどんどん進んでいきます。

やがて大きな交差点に出ると、右に曲がって七つの信号を通り過ぎます。その交差点で、今度は左に曲がります。

ここまではごく簡単に述べましたが、案外長い道のりで、一〇時に家を出たにも関わらず、目当ての店に着いたのが三時でした。

さて、何を買うのかは以前から決まっていました。高級のネックレスです。もう二度と通販のネックレスは見たくないですからね。

あれは間違いだ、なんて今更言えないので、どうせなら新しいものを買おう、というわけです。

私の為に今まで尽くしてくれた、妻へのささやかなプレゼントです。

目当てのネックレスは、案外すぐに見つかりました。ダイヤが三つついた、輝かしい私達の永遠です。

値段は一二〇万円と、ちょっと高すぎる気もしましたが、二〇年来はじめての正当なプレゼントなのです。奮発することにしました。

店員さんは始終私を見張っていましたが、買うとなると急に親切になりました。私はこういう経験を、どこかでしたことがある、と思いました。

実際、日常で溢れかえっている光景でした。金が見えなければ、人はまず人を疑うのです。

さて、私は店を出て、来た道を戻ります。時刻は三時半。この分なら夕方までには着きそうです。

帰りは八時になるといっておりましたから、これは大きな誤算でした。

無論、良い意味で、ですよ。しかし道というのは……と再び語りだすのはよしましょう。今日はそんな暗い気分には到底なれません。

心なしか歩調は早まります。はやく妻に見せたい一心で、私は衝き動いていたのです。しかし、大きな誤算が、ここでも生じました。今度は悪い意味です。

前方を歩いていた青年の右肩が、私の右肩、そして右腕に食い込んだのです。

初め青年は怒鳴りましたが、激しく痛がる私を見るとすぐに謝罪してくれました。しかし、そんなことで腕の痛みは退きません。

青年は不審がっていたので、私は無理矢理笑いながら事の重大さを説明しました。青年は納得しながらも、不安なようです。

医者を呼ぼうか、と聞かれ、結構です、と答えました。もう病院はうんざりです。

それからの道は長かった。しかし紆余曲折はあったものの、帰宅時刻は七時半でした。

さぁ、玄関です。私はもう一度、胸ポケットのプレゼントを観察しました。

そこには確かに一二〇万円のダイヤ三つが輝いておりました。この瞬間をどれだけ待ち望んでいたことか!

今日すべきことは今日すべきだ、誰かがそんなありふれた文句を怒鳴っていましたが、遂に今、先延ばしにされていたそれが、完遂するのです。

私の鼓動は酷く慌てていました。

それでも一歩、玄関を踏みしめたのです。自分の鼓動で家が揺れて妻にばれるのを恐れ、一旦右足を退きました。まだ鼓動は鳴り響いています。

しかしその時。私が再び右足に力を入れ、玄関を踏みしめようとしたその時。妻の声が聞こえました。私は慌てて玄関の隅に逃げ込みました。

妻が私に気付き、こちらへ来ると思ったのです。しかし、妻は一向に扉を開きません。

ははぁ、さては逆に私を驚かすつもりだな、買い物の目的は誕生日プレゼントだということはすでにお見通しか、初めはごく当たり前にそう推定しました。


 七

しかし、現実はとても怖ろしく、私からとても大切な欠片を奪い去りました。

再び妻の声が聞こえたかと思ったその時、別の声が妻の声に応答したのです。

それは初め、私が無意識に喋ったのかな、と思いました。そしてすぐにその愚かさを噛み締めました。

妻は私のほかに男を作っていたのです。証拠に、先程からの会話を聞いていると、どうやら私が出かけている間、二人は深く繋がっていたようなのです。

しかも、妻はそれを楽しんだかのように言うのです。

この事実は私を潰しました。衝撃が私を殺しました。男は何食わぬ声で、玄関にこんな男がいるのも知らずに、夫はまだ帰ってこないのか、と言いました。

加えて、そろそろとんずらしないとまずいだろう、とも言いました。私は妻の返答を聞こう、と思いました。まだ助かる余地はある、そう考えたのです。

妻は程なく「帰りは八時頃だからまだ大丈夫、でもそろそろ服を着ましょうか」と言いました。

嗚呼!なんということでしょうか!

彼女達はまさに今、深い繋がりを楽しんでいたのです。

その時、足元に軽い振動を感じました。燕の雛です。誤って巣から落ちたのです。

私は震えました。プレゼントのあたりを握り締め、必死に堪えようとしましたが無駄でした。そうして大きく深呼吸した後、私は諦めました。

妻を。

プレゼントを。

人生を。

何食わぬ顔で雛を巣に戻し、私は遠くへ旅立つから、お前はいつまでも大空を飛んでいてくれ、と言いました。そしてそのまま去ろうとしました。

が、玄関を背にし、門から出る時、私は見てはいけないものを見てしまったのです。

頭の上を親鳥が飛んでいったのです。何気なく、本当に何の心地もなく、ただそれを見送りました。

見送った先は、あの巣でした。

親燕は、雛鳥を突き落としました。

それは当然の行為でした。悪いのは私です。燕の習性も顧みることなく、雛を素手で巣に戻した愚かな私の責任なのです。

雛は再び地面に叩きつけられ、醜くも哀れでおぼろげな、悲しい声を出しました。そう、口から溢れ出るようにして、出るべくして出たのです。

それは丁度、私の右腕が鳴く時の声に似ていました。死に直面した、すがる者の声です。

親鳥はそれを見ることなく、またどこかへ飛んでいきました。嫌なものを見ました。見てはいけなかったものを、私は見てしまったのです。

急に、右腕がきゅう、と鳴きました。同じ声で叫ぶ雛鳥に、共感したのでしょうか。それとも自分の未来を案じたのでしょうか。

どちらにせよ、それは私にとって、決して愉快な音ではありませんでした。

私は、一つの命を殺しました。


 八

私は虚ろに公園のベンチにいました。

妙に汗をかいた男が通り過ぎました。不思議と、殺気はおこりませんでした。もちろん、妻にもです。総ては私が悪いのですから。

妻は当たり前の行為をとったまでです。何故かって?

だってそうでしょう。最愛の夫が後頭部強打で半身不随、おまけに脳への影響で痴呆にまでなったのですから。そんな夫を、私なら愛せません。

もう二度と夜を過ごせない夫に、どうしてついて行けましょうか。私なら別の誰かを探すでしょう。

妻もそうして幸せを得ただけなのです。

私にできないことを、妻にはさせようとは思いません。だから、私は不思議と自然体でいられました。

ただ、一二〇万円のネックレス――二人の愛を永遠にしようと買った、三つのダイヤモンドがついたネックレス。

それだけが、あまりにも輝きすぎていたせいなのかもしれません。

私はゆらり、と立ち上がり、近くの電柱を抱きかかえました。

そして大きく上体を反らせた後、強く頭を打ちつけ、崩れ落ちました。

やがて意識が遠のいていくなか、幸せだったあの頃の妻の笑顔を想いだしていました。