<別れ道>

それは黒い雲がバケツをひっくり返したような大雨を降らせている、ある蒸し暑い夏の夕暮れのことである。

大きな黒い傘の下に、いかにも青年らしい一人の男がいた。この大雨の中では、しかし傘は何等意味を持たなかった。

黒いボロボロの上着をボタンも留めずに纏い、そしてまたボロボロで漆黒のズボンをはいて、幅二メートルばかりの畦道を一人ぽつねんと歩いている。

見渡す限りの田園は、しばらく続いているこの大雨のせいで溢れかえっている。泥はぐちゃぐちゃに混ざり合い、稲穂は皆倒れてしまった。

この田園収入だけで暮らしている村人にとって、これはゆゆしき事態ではあった。しかしこの大雨である。

また今日は葬式もあったので、一層村人たちは恐れて、家に引きこもってしまった。

そんな畦道を、男はずぶ濡れになりながら歩いていた。


実はこの男、五年前に家業を継ぐか継がないかの問題で父と不仲になり、都会に出て行ったまま帰って来なかったのだ。

為に父は男の母と妹、それと病弱な叔父を一人で養わなくてはならず、ただひたすら働く毎日であった。

男はその間友人宅へ居候し、歌手になるという志を果たそうとしていた。

最初こそ中々名も上がらなかったが、毎日の地道な努力が功を奏し、徐々に有名になりつつあった。

それがこうして節を折って帰ってきたのは、他でもない、父の危篤を聞きつけたからである。

しかし帰ってきた時にはすでに時遅く、到着一時間前に父は他界してしまっていた。男は己の情けなさとまだ暖かい死体に泣いた。

泣くにはそれなりの理由があった。死んだから、というだけではない、もっと深い理由がある。

この男、危篤を聞きつけてから家を出るのに二日も悩んでいた。

五年という歳月を持ってしても、この頑固者には二日間という猶予を与えなくてはならなかったのだ。

しかしようやく重い腰を上げて帰ってみれば、父はもう死んでいたのである。だから、己の情けなさに泣いたのだ。

男は何か償うべきだと思った。とりあえず葬式を終えたあと、黒い服のまま、黒い傘で黒い雨の中を彷徨ってみた。

それでも男には父を許せなかった。その内、男の自分勝手な脳は「先に死ぬなんて卑怯だ」と考えるようになった。

夕闇はますますひどくなり、次いで道もはっきりと見えなくなってきた。幾度となく足を滑らせ、またびしょ濡れになる始末であった。

次第に寒気がしてきて、寒さしのぎに上着のボタンを上三つ留めた。下三つはボタンが取れていた。

面倒臭がりの男には、ボタンをつけることなど考えたこともなかった。しかしここに於いて、やはり出来ることは出来るうちにすべきだと思った。

遠くで雷が地にぶつかる音が聞こえる。それは心臓に直接響くような、重く、黒い音だった。

それが男には、まるで大自然から責められているような、なんだか恐ろしい叫び声のように感じられた。

しばらくは道なりに歩を進め、泥濘に足を取られながら悩み続けていた男だが、突然背中が凍ったように硬直し、やがて男はその目を疑った。

――道が分かれていたのだ。どちらも見たことがない、奇妙な畦道である。

さては狐か狸かと、道に向かって叫んでみるも空しく、雷雨に掻き消されるばかりである。

いよいよ雷は近づき始め、なにやら恐怖を感じたので、男は道を取って返そうとするのだが、歩いて来た方向はすでに道とは呼べない状態になっていた。

すなわち豪雨によって人の通れるような道ではなくなっていた。それでも男は無理に引き返してみた。

するとどうしたことだろう、雨蛙どもが一斉に鳴き出したのだ。気味が悪くなってもう一度分かれ道の方に向き直すと、不思議なことに蛙たちは鳴き止む。

やむを得ず男は右の畦道を選び、その重い足を踏み出した。


もう何キロ歩いたのだろうか。道は次第に森へ森へと男を誘った。厚い暗闇が、男を呑み込むかのように拡がっていた。

すると道の向こうに明かりがチラホラと見えている。さては、と思い、男は走り出した。

すでに陽は沈み、手元の時計は二三時を指している。とにもかくにも、一晩過ごせる場所が欲しかった。

走り寄ると、幸か不幸か、中には老婆がいるようだ。

初めは不気味に思い、窓を覗いていた男であるが、いつまでもそうしていられないのでとりあえず戸を叩いた。

この時、男には何故か雷雨の音が聞こえなかった。ただ静寂の中に、戸を叩く音と、老婆が機を織る音が交錯するのみである。

辺りを見回すと、容赦なく暗闇が襲ってくる。男は更に強い恐怖を感じ、戸をより一層強く叩いた。そして大人気もなく大きな声で叫んだ。

しかし老婆はなんの反応も見せず、ただ機織りを続けている。

男には、その機織る音が老婆の笑い声のように聞こえて、まるで老婆が自分を蔑んでいる様に感じられた。

更に叩き叫び続けること十余分。老婆はようやくその重たい腰を動かし、蚊の鳴くような掛け声と共に立ち上がった。

やがて戸をガラガラと開き、その醜い顔を覘かした。

「どうなさった」老婆は言うのである。

男は訝しげに今までの経緯を話してみた。

父が死んだこと、その償いで雨の中を出たこと、不思議なことが起こってこの森に迷い込んだこと。しかし老婆は一切に答えずに言った。

「上がりなされ」

老婆の不可解な言動に不安や恐怖は勿論あったが、いい加減暖を取りたかったしこの老婆に私情を伝えたところで何の益にもならない。

男は素直に小屋の中に入って囲炉裏の前で正座した。

小屋の中には先の機織と囲炉裏しかなかった。その囲炉裏の向こうで、老婆はこちらに背を向けて座っている。

男はむしろ老婆を心配して言った。

「お婆さん、どうしてこのようなところで、一人でお住みになられているんですか。不便でしょう」

「……」しかし老婆は答えない。

「お婆さん、聞こえてますか」

「……」

老婆はゆらゆらと小さく静かに揺れ始め、男はその揺れ方に何か違和感を覚えた。

雨は益々酷くなり、それに合わせるかのように老婆も激しく震え始めた。

「お婆さん!大丈夫ですか!?」

慌てて男が駆け寄り肩に手を置いた瞬間、老婆はピタリと止まった。そして静かに男を振り返った。

「そ、そんな……馬鹿な!!」男は驚いて尻餅をついた。

老婆は静かに、ただ静かに男に近づいてきた。

その瞬間、今まで聞こえなかった総ての音という音が、男の耳を引っ掻き破った。老婆は何と父に変わっていたのである!

「お、親父……どうして……」

父に変わった老婆だったものはニヤリと笑い、恐怖で慌てふためく男の耳元で呟いた。

「お前は何故俺の死に目にいなかった」

「ヒィ!すまんっ親父!!許してくれぇ!!!!」

「お前は未だに俺を恨んでいるのか。ならば俺もお前を恨もうぞ」

「違う!違うんだ!ほ、ほら、こうして戻ってきたじゃないか!!もう、本当に改心したんだ!」

「家はどうする」

「継ぐよ!母さんと美知子と、それから叔父さんまでみんな俺が面倒見るから!頼む!!」

途端に辺りは雷の閃光に包まれた。そして光が消えた頃、父はもうどこにもいなかった。

囲炉裏もない、小屋もない、ただ広大な田んぼの中で、男は尻餅をついていた。

雨は、変わらず降り続いている。

しばらくは状況が理解できずそのままポカンとしていた男であったが、やがて耐え切れなくなって、叫びながら逃げ出した。


高い空はからっからに晴れ抜いて、気持ちのいい涼風が辺りを撫でていた。

田園を貫く畦道は同じような旋律で続いており、田園にはふさふさと稲穂が揺れている。

まもなく収穫の秋だ。今年からは男も収穫を手伝う。母と、妹の美知子と、それから叔父の世話をする為だ。

突然の帰郷に彼らは驚いたが、男は決してその理由を明かさなかった。


やがて男も天寿を全うし、あの時何が起こったかは、その後誰一人として知る者はいない。