<和式> D氏は桜が好きではない。あれは女の花だ。或いは仮面の色だ。 以前は通勤途中の桜並木が美しかった。日本晴れの空に広がり映える白い靄。花弁は時に犬猫や、女房子供の毛髪に居座る。 幹の外皮にまで含む赤い色素は生血である。桜餅は不愉快な食い物だ。桃色と称するは桃への侮辱か。いや、桃も梅も、或いは奴らの同類かもしれない。 ところで今D氏が心ならずも居座っている公園の公衆便所だが、ごく遠慮がちに言って、あまり綺麗ではない。 不可解ならくがきが壁を覆い尽くしているのがまず下品だ。 床を見るとあまり形容したくない色が便器へとぼつりぼつり這い上がっており、薄暗い照明と調和している。不快の一言に尽きる。 和式であることが最もD氏を憤慨させた。 和式便所で用を足す時ほど無防備な体勢があろうか? 昔から日本人の足が強かったのはまさにこの和式便所がもたらした恩恵に他ならぬ等という戯言こそさっぱり流れてしまえば良い。 という持論を振りかざすD氏も、この和式便所を正しく使用した。止むに止まれぬ事情があってのことだ。 D氏は四方の壁に僅かも触れぬよう、個室に篭城している。 もう出すべきものは出たというに個室から出ないのは、隣が気になるからだ。 掃除用具入れではなく、洋式でもない、らくがきの密度までこちらに似た、隣の個室だ。 D氏が頑張っている間に入った誰かの、その足音は人間一人のものではない。男女でも一組詰め込まれたか。 それなら平和なのだが、確実にこの壁や床を素肌で触りまくる羽目になり、かつ便器に手足を突っ込む危険を冒してまで狭いここで、何かする、とは考えにくい。断言はできないが。 何かがぼちゃぼちゃ水に落ちる音がする。当然か、しかしそれにしても非常に長い。 かれこれ三分は続いているが、一体何日分溜めたというのだろう。十日も我慢すると口から脱糞してしまうそうだが、その検証でも行ったのだろうか。 壁が綺麗ならよじ登って結果を見届けてやりたいところだが… 再度、便器を呪う。洋式ならそれを踏み台にできた。 音は止まない。 他人の排泄の様子を見て喜ぶ趣味はないし、問題の隣は、最早排便であるはずがない。 耳を澄まさずとも聞こえる水洗の音で、便器の許容量を越えたのだろうと見当をつけた。 軟体物と水の音は水洗に混ざりつつ、緩急はあれど、この数分を完璧に貫通している。最初から臭かった便所内に、更に異質な匂いが沈殿していく。 D氏は嫌な推理をする。隣の誰かが人間の死体を潰し、それを便所に流している。 馬鹿な、骨を砕く音はない。詰まらせて清掃員を仰天させて終いだ。つまらない。 隣は更にレバーを捻っているが、タンクは虚しくがぼりと息を吐くだけだった。給水が水洗に追いつかない。何しろミンチは流しにくかろう。 否、肉から離れて考えたい。だが大便音だとは断じて認めない。例えここがどこだかわかっていてもだ。… ……… やっと勢い良く水が流れると、隣のドアは開いた。D氏は反射的に飛び出して、硬直した。 今外から誰かが入って来れば、どろりと充満した濃密な異臭に意識が遠のいたろう。その前に遠のくのは足だろうが。 D氏は意識こそ保っていたものの、立ちどおしで四肢は痺れ、鼻も麻痺し、目を疑っていた。 匂いの元凶はこの桜だ。 D氏の隣の個室で頑張っていたのは桜の木だ。根を這わせてタイルの床を歩いている。 「すみません、通してください。」 桜の木が言い、D氏は腰を抜かしてへたりこんだ。 「ああ、大丈夫ですか。困ったな。少し待ちましょうか」 「あの、あの、あの、何をどうして?」 D氏は、できるだけ平静を装って尋ねた。 「何をどうって、トイレですべきことをしたまでですが」 「何ですかキャベツですか!」 D氏は、混乱を悟られまいと訊き返した。 「誰がキャベツ畑のコウノトリです。桜に見えませんか。ただの桜じゃない、自分じゃ案外有名なつもりなんですが。 人の血を吸い上げて薄紅色の花を咲かす、根元には人の骨が埋まっている、そういった由緒ある桜なんですがね。 ご存知ない?ご存知ない、ああそう。珍しいからですよ、特に私なんか割合グルメなたちで、 …どうしてトイレで食べ物の話なんかさせるんです、あなたは」 それだけ聞くとD氏は奇怪な姿勢で駆け出した。 においは全身にくまなく染み込み、べとついたほこりがズボンにこびりついていた。 後に残された桜の木は呆然と立ち尽くしていたが、やがて手を…枝をたっぷりの水で濡らし、根元へ振りかけながら呟いた。 「逃げなくても、誰がこんな汚いトイレで拾い食いなんかできるっていうのか」 そして帰っていった。 もうじき夏が来る。 D氏が待ち焦がれた、夏だ。